| Exp. "SADO" |
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急行〔佐渡〕ヒストリー
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太平洋戦争(第二次世界大戦)前に全線開業した上越線(上野−新潟間)に、戦後、急行列車が復活したのは1946年(昭和21年)2月25日(11月10日に一旦廃止され、翌年10月1日に再復活)。1952年(昭和27年)10月1日に上野−新潟間に急行〔越路〕がデビューし(それまで名称が付けられていなかった急行701レ・702レに名称が付けられた)、この〔越路〕が東京と新潟を結ぶ急行列車に初めて名前がつけられた。まだ、この頃には〔佐渡〕の名はなかった。
急行〔越路〕の登場から4年後、1956年(昭和31年)11月19日に急行〔佐渡〕がデビューした。この頃は、まだ165系電車ではなく客車急行で、上野−新潟間で一番電化が遅れていた信越本線(長岡−新潟間)では蒸気機関車が活躍していた時代でもあった。もちろん、特急列車は東海道本線・山陽本線に数本が走る程度。鈍行の「汽車」が主力の時代だった。
上野−新潟間の急行は、急行〔越路〕、〔佐渡〕に続き、急行〔弥彦〕が特急〔とき〕ととも1962年(昭和37年)6月10日にデビューし、東京と新潟を結ぶ急行三兄弟が揃った。その後、準急で上野−長岡間の運転だった〔ゆきぐに〕が急行化、運転区間も新潟まで延長され、急行三兄弟が四兄弟にまで成長した。
1963年(昭和38年)6月1日のダイヤ改正には、153系電車を山岳路線向けに改良した165系電車が登場し、早速、上野−新潟間の急行〔越路〕〔佐渡〕〔弥彦〕に導入された。この165系電車は、急行〔佐渡〕廃止までの約22年間、上越線急行の花形として活躍した。
特急〔とき〕と同じく、1963年(昭和38年)1月に新潟県地方を襲った豪雪「サンパチ豪雪」、1964年(昭和39年)6月16日に発生した「新潟地震」では、急行〔佐渡〕も影響を受けた。新潟地震では、約1週間も急行〔弥彦〕〔佐渡〕〔越路〕〔ゆきぐに〕〔越後〕が新潟駅に乗り入れられず、新津駅で折り返した。順次、新潟乗り入れが復旧したものの、地震で大きな被害を受けた新潟駅が本格復旧するまでは少なからず地震の影響を受けた。
特急〔とき〕とともに上越線のスターである急行〔越路〕〔佐渡〕〔弥彦〕は、やはり庶民の足≠セった。まだ高度経済成長の真っ只中にあったこの時代、特急〔とき〕は全車指定席。当然乗客も企業の役員や一部の裕福層に限られている「高嶺の花」だった。たとえ、特急〔とき〕より時間がかかっても、「鈍行」と呼ばれた普通列車よりも多少速く快適な急行が、庶民の選択だった。
東海道新幹線が開業した翌年の1965年(昭和40年)10月1日のダイヤ改正で、上越線急行三兄弟にも大きな変化の時が訪れた。三兄弟の「長男」、急行〔越路〕と「三男」の急行〔弥彦〕、「四男」の急行〔ゆきぐに〕が、次男坊である急行〔佐渡〕に吸収される形で名称が廃止された。急行〔越路〕は、夜行急行に名称を譲り、昼行の急行は全て〔佐渡〕に統一された。上野−新潟間を結ぶ急行に名称が多いのも煩わしさが生じてしまうのも事実で、これで、上野−新潟間の急行は、〔佐渡〕に統一され、夜行急行の〔越路〕、〔天の川〕(1963年6月1日デビュー)とともに、「看板急行」の道を歩んだ。
【図A】 1965年10月ダイヤ改正時の編成図(165系電車)
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| ←上野 |
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新潟→ |
1968年(昭和43年)10月1日のダイヤ改正で、電車の夜行急行だった〔越路〕が、〔佐渡〕に変更され、寝台車を連結した客車の夜行急行〔天の川〕との二本立てとなった。運転本数は兄貴分≠フ特急〔とき〕には及ばないものの、8往復も運転され、グリーン車2輌、半室ビュッフェ車2輌を連結した13輌編成で上越国境を越えていった。まさに「Aクラスの急行」だった。しかし、特急列車が一般化してくると、急行列車はなんとも中途半端な存在になりがちで、特急〔とき〕の成長の影に隠れてしまい、急行〔佐渡〕はこのころが一番輝いていた時代だったのかもしれません。1973年(昭和48年)10月2日のダイヤ改正で、特急〔とき〕が増発されるかわりに、急行〔佐渡〕は昼行3往復・夜行1往復の計4往復に削減された。これは、特急〔とき〕がデビューした1962年(昭和37年)当時の急行〔越路〕〔佐渡〕〔弥彦〕〔ゆきぐに〕の4往復体制と戻ったとも考えられ、時代が「急行から特急へ」とシフトしていったことを証明した。
上越新幹線着工の槌音が聞こえ始めた1970年代前半、急行〔佐渡〕は新たな仲間として、急行〔よねやま〕(上野−長岡−直江津間)を迎えた。根強い人気に支えられつつも、国鉄の累積赤字の増加やモータリゼーションの波は静かに急行〔佐渡〕を襲い、半室ビュッフェ車の運転離脱やグリーン車の減車が相次いだ。1977年(昭和52年)3月8日、上越線・津久田−岩本間を走行していた上野発新潟行の急行〔佐渡3号〕は、線路脇の崖から落ちた岩に激突し、先頭車から4輌目までが脱線、先頭車は上り線を越えて約5m下の国道に、2輌目と3輌目は上り線上に転覆し、乗客1名が入院後に死亡、負傷者104名を出す大惨事となった。上越線は10日朝まで不通となり、大きな影響が出た。
上越新幹線の開業が、オイルショック後の経済低迷や大宮以南での新幹線通過反対運動、東京都内での用地買収の遅れから、遅れに遅れ、大宮暫定開業が「1982年(昭和57年)度」とやっと発表されると、完全に並行する急行〔佐渡〕は全廃されるだろうと予想された。しかし、大宮での乗り換えや新幹線通過地域を考慮して、特急〔とき〕は全廃されるものの、急行〔佐渡〕は夜行のみ1往復が廃止され、昼行3往復は存続されることになった。
【図B】 1978年10月ダイヤ改正時の編成図(165系電車)
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| ←上野 |
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新潟→ |
1982年(昭和57年)11月14日。急行〔佐渡〕の兄貴分≠ニして活躍し続けた特急〔とき〕のさよならセレモニーが行われている傍らで、急行〔佐渡〕は、明日からの「上越新幹線新時代」を静かに迎えた。華々しい上越新幹線の開業セレモニーが新潟駅や大宮駅で行われ、「高速新時代」の幕開けを告げたが、急行〔佐渡〕は、愚直なほど地味に、特急〔とき〕の光よりも強烈に輝いていた上越新幹線〔あさひ〕〔とき〕の陰に、上越線急行の自らの役目を果たしていった。それでも、特急〔とき〕のなき上越線の看板急行として、最後の輝きをみせていた。
1985年(昭和60年)3月13日。用地買収などが難航し開業が遅れていた上野−大宮間の開業を翌日に控え、急行〔佐渡〕は最後の運転を迎えた。どことなく地味で、それでいて庶民派で、高度経済成長を陰で支えた急行〔佐渡〕。雪との闘い、上越国境の険しい山道との闘い、そして、落石脱線転覆事故。急行〔佐渡〕は、28年半、1万0,341日を以って引退の花道を飾った。急行〔佐渡〕の引退は同時に、上越線の急行の全廃を意味していた。急行〔越路〕〔弥彦〕〔ゆきぐに〕、そして〔よねやま〕が走り続けていた上越線から急行が姿を消した。埼玉県や群馬県側では、特急と急行の中間に位置する「新特急」がその後の任を担ったが、新潟県側の上越線にはその後急行が走ることはなかった。
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