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1828 Echigo Sanjô Earthquake

天災は忘れた頃にやってくる Disaster strikes when it is least expected.

良寛と三条地震

 名僧・良寛は、三条地震のとき三島郡島崎の木村家の一隅に身を寄せていた。良寛は、日頃親交があった寶塔院ほうとういん(三条市)の隠居・隆全和尚に宛てて書簡を送った。

 此度三条の大変承わり信に恐れ入り候。御尊体如何遊ばされ候や。宝塔院住持如何遊ばれ候や。三浦屋如何成り候や。もし命有り候はば宜しく御伝言御頼み上げ申し候。其他一一筆紙に尽し難く候。此方大いにいたみ候へども、野僧が草庵は無事に御座候。御心安くおぼしめし下され度候。早々頓首
    霜月廿一日
 宝塔院御隠居様           良寛

 また、良寛と特に親しくしていた与板町(現在の長岡市)の山田杜皐には、

 地震は信に大変に候。野僧草庵何事なく候。親類中、死人もなくめで度存候。
   うちつけに 死なば死なずて 存へて
     かかる憂き目を 見るがはびしさ
 しかし災難は逢時節には災難に逢がよし候。死ぬ時節には死ぬがよく候。是はこれ災難を逃るる妙法にて候。
                   かしこ
           良寛
   臘八
 山田杜皐老             良寛

との手紙を送った。良寛は地震の惨状をこの目で確かめるべく71歳の老体をおして、三条まで足を運び、次のように詠んだ。

ながらへむことや思ひしかくばかり
   変はりはてぬる世とは知らずて
かにかくに止まらぬものは涙なり
   人の見る目も忍ぶばかりに

 寳塔院の隠居・隆全和尚は、住職隆観とその弟子覚明とともに、地震で不慮の死を遂げた無縁仏の骨を拾い歩き、境内に地震亡霊塔を建立、被災者を弔った。

良寛りょうかん

 良寛は、1758年(宝暦8年)越後国出雲崎いずもざき(現在の三島郡出雲崎町)に山本左門泰雄の子として生まれた。栄蔵または文孝と呼ばれた。父は名主で、栄蔵はその跡を継ぐはずだったが18歳のときに出家した。

 出家後、備前国玉島(現在の倉敷市)・円通寺の国仙和尚に師事、諸国を廻った。48歳の時に越後国蒲原郡国上村(現在の燕市)国上山くがみやま真言宗国上寺こくじょうじの五合庵に住み、その後国上寺から少し下った乙子おとこ神社草庵、70歳の時に三島郡島崎(現在の長岡市)の木村元右衛門邸に移った。良寛は、無欲恬淡な性格で、生涯に寺を持たず、自らの質素な生活を示したり簡単な言葉で一般庶民に分かりやすく仏法を説いた。1831年(天保2年)に、弟子の貞心尼に看取られた。

 良寛は後世の人々に、子どもたちを愛し積極的に遊んだという姿が記憶されている。良寛は「子どもの純真な心こそが誠の仏の心」と解し、子どもたちと遊ぶことを好み、手毬をついたりしてよく遊んだという。書家としても知られた良寛は高名な人物からの依頼は断る傾向にあったが、子どもたちから凧に文字を書いてほしいと頼まれると、喜んで「天上大風」の字を書いた。

 戒律に厳しい禅宗の僧侶でありながら、酒を好み、良寛を慕う民衆と頻繁に交杯した。

 なお、国上寺の五合庵は、1906年(明治39年)の大雪で倒壊したが、1914年(大正3年)に再建された。1952年(昭和27年)に新潟県の指定文化財に選定された。

備えあれば憂いなし Prepare for the worst, and you'll have no regrets.

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