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1828 Echigo Sanjô Earthquake

天災は忘れた頃にやってくる Disaster strikes when it is least expected.

冬支度の市日いちびを襲ったマグニチュード6.9

 明治維新の60年前、まだ時代は江戸時代の文政ぶんせい11年(1828年)、越後国蒲原郡三條町。

 この1828年(文政11年)は、三条にとって災禍に見舞われた年だった。弥生(3月)22日には二ノ町にのちょう(本町4丁目)、三ノ町さんのちょう(本町5丁目)で300戸を焼失する大火が発生した。さらにこの年は天候が不順で、凶作に悩まされた。また、神無月(10月)5日には屋根石を吹き飛ばすような大風が吹き荒れた。

 霜月(11月)12日、現在の暦では12月18日。この日は、三条では「二・七の定期市」の市日で、浄土真宗東本願寺三条別院(東別院)門前の本寺小路ほんじこうじでは、早朝から近郷の村々から集まった野菜市が開かれていた。

 朝五ツ時上刻(現在の時刻では7時40分〜8時ころ)、西の方から南の方に抜ける雷のような轟音とともに、とてつもなく大きな揺れが襲った。

 この揺れは、越中えっちゅう(富山県)、信濃しなの(長野県)、上野こうずけ(群馬県)、出羽でわ(山形県)、さらには江戸(東京都)でも大地震に匹敵するほどの大きな揺れで、人々は驚かされた。

 一瞬にして三条の町家は将棋倒しに倒壊し、町民は煮炊きの火を消す間もなく、戸外に飛び出すのが精一杯だった。町内の13ヶ所から火の手が上がり、みるみる延焼していった。「三條町より三四里東まで、数十ヶ村、皆潰れ、大地相割れ、材木青泥吹出し候……」(三条町から3、4里東までの数十の村々では、家がみんな倒壊し、地割れが生じ、材木や青砂が地面から吹き出した)と当時の史料(「内廻状留」)に残されている。

三条地震の推定震度
震度 地 区
7 三条、燕、見附、栄、中之島、椿澤、太田
6〜7 加茂、与板、三島、福道
6 弥彦、吉田、分水、田上、中之口、黒津
5〜6 下田、白根、長岡、和島、月潟、新津、五泉
5 栃尾、出雲崎、上除、妙見、新潟
4 高田、柏崎、小千谷、寺泊

 のちの昭和時代に調査した結果、推定される地震の規模を示すマグニチュードは6.9、震央は北緯37.6度、東経138.9度、現在の三条市芹山付近を中心とする半径10km域内が推定震央、三条、燕、見附などで震度7と推定されている。また、気象庁はこの地震を正式に命名していないが、地元だけでなく地震学者などの間でも、この地震を「(文政)越後三條地震」もしくは「三条地震」と呼んでいる。

1828年(文政11年)

 江戸幕府の将軍は11代目・徳川家斉いえなり、天皇は第120代の仁孝にんこう天皇(明治天皇の継祖父)。江戸時代の三大改革、寛政の改革と天保の改革の間に位置するこの時代は、家斉が側用人の水野みずの忠成ただあきらを幕政の責任者として「大御所」となった。水野の幕政は賄賂わいろ政治で名を馳せた田沼たぬま意次おきつぐを凌ぐ賄賂政治だったという。家斉は少なくとも男26人女27人の子をもうけ、この子らの養育費が幕府財政を圧迫させた。

 一方、長崎・出島にあったオランダ商館付のドイツ人医師であるPhilippフィリップ Franzフランツ Balthasarバルタザール vonフォン Sieboldシーボルトが、帰国する際に国外持出を禁じられていた日本地図などを所持品としていたため、日本地図などを贈った幕府天文方・書物奉行の高橋景保らが処分され、高橋は獄中死した。シーボルトは翌年に国外追放のうえ再渡航禁止の処分を受けた。これを「シーボルト事件」という。

 のちに、今の辛抱が将来の利益となる「米百俵」の故事で有名な長岡藩士・小林こばやし虎三郎とらさぶろうが小林又兵衛の三男として生まれたのはこの年の葉月(8月)18日(新暦では9月26日)。河井かわい継之助つぎのすけは数え2歳だった。

 またこの時代は、江戸を中心とした化政文化が花開く時期でもあった。文学では、十返舎じっぺんしゃ一九いっくの『東海道中膝栗毛とうかいどうちゅうひざくりげ』、式亭しきてい三馬さんばの『浮世風呂うきよぶろ』などの滑稽本、為永ためなが春水しゅんすいの『春色梅児誉美しゅんしょくうめごよみ』などの人情本、曲亭きょくてい馬琴ばきんの『南総里見八犬伝なんそうさとみはっけんでん』などの読本よみほんがその代表である。そして、後に『北越雪譜ほくえつせっぷ』を刊行した鈴木すずき牧之ぼくし、『北越奇談ほくえつきだん』のたちばな崑崙こんろんもこの時代の人物である。俳諧では与謝よさ蕪村ぶそん小林こばやし一茶いっさが活躍し、僧侶であり歌人・漢詩人・書家であった良寛りょうかんもこの頃の人物である。当時の世相を皮肉った「川柳」もこの頃に登場した。

 美術では、浮世絵が発達し多色刷りの錦絵が生まれた。喜多川きたがわ歌麿うたまろの美人画、葛飾かつしか北齋ほくさい(代表作「富嶽三十六景ふがくさんじゅうろっけい」)や歌川うたがわ広重ひろしげ(代表作「東海道五十三次とうかいどうごじゅうさんつぎ」)の風景画、東洲斎とうしゅうさい写楽しゃらくの役者絵などが画かれた。このほか、渡辺わたなべ崋山かざんの文人画、円山まるやま応挙おうきょの写生画も有名である。

 庶民の娯楽も盛んになり、歌舞伎が人気を博し名優が現れて立派な劇場ができた。伊勢参り(お蔭参り)などに出かける人が増え、京都・祇園祭、江戸・神田祭が始まったのもこの頃で、村祭りや盆踊りも同じように始まった。

備えあれば憂いなし Prepare for the worst, and you'll have no regrets.

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