| 1828 Echigo Sanjô Earthquake |
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天災は忘れた頃にやってくる Disaster strikes when it is least expected.
阿鼻叫喚の巷と化した三条の町
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| 『三条市史』より引用 |
マグニチュード6.9、推定震度7の内陸直下型地震に見舞われた三条、燕、見附、栄、中之島などでは、それまでの平穏な町並みが一瞬にして、まさに「阿鼻叫喚」の地獄絵になってしまった。
長岡市与板町の長明寺の過去帳記録によれば、
- (前略)……三条町ニテ死人数凡千人アマリ、その外市日の事ゆえ他所他村の人死候事ハ数知れず……(中略)……この度の大変は第一番三条、第二番見附町、三番今町、四番ツバメ町、五番与板町と申事マコトニ前代未聞の大地震ゆえ、六七里四方のうちにて凡そ一万人モ死人コレアリ候様子……(以下略)
- (前略)……三条町(三条市)での死者は1,000人余り、その他、市日だったので三条町外からやってきた人の死者数は数知れず……(中略)……今回の地震の被害は、一番に三条町、2番目に見附町(見附市)、3番目が今町(見附市)、4番目燕町(燕市)、5番目が与板町(長岡市)ということ。前代未聞の大地震で、約25km四方でおよそ1万人も死者が出た様子……(以下略)
と大きな被害が記されている。また、「越後國三條地震大變記」には、東別院の様子が記録されている。
- 十二日朝五ツ時頃東南の方より鳴出シ五六里四方大地を動り上候事五度也、六度目には東御坊を始め六里四方の町在々寺院過半ゆり崩し先ツ震初ニ名高キ三條御坊十五間二拾貮間の本堂八九尺程五度ゆり上六度目にはゆり崩し候……
- 12日午前8時頃、東南の方から地鳴りが聞こえ、約20〜24km四方の大地が揺れ動くこと5度、6度目の揺れには東別院をはじめ約24km四方の町にある寺院の過半数が倒壊し、それより先に名高き東別院の約27m・約40mの本堂は、2、3m程も5回も揺れて、6度目には倒壊した。
町家は一瞬にして将棋倒しとなってしまい、人々は命からがら家から逃げ出した。火の始末ができなかった家から次々と出火し、五ノ町(本町6丁目)から3ヶ所をはじめ、大町(本町2丁目)、三ノ町(本町5丁目)、四ノ町(本町5丁目)など、13ヶ所から火の手が上がった。
野菜市が立っていた東別院の門前、本寺小路では、9人が住む茶屋が倒壊、7人が家の下敷きになった。その茶屋の軒先で大根や里芋を商っていた百姓夫婦も倒壊してきた家の庇の下敷きになってしまい、自力で逃げることができず、助けを求めても誰も手助けしてくれる人はいなかった。やがて地震直後の出火した炎が下敷きの夫婦に迫ろうとしていた。妻は辛うじて助け出されましたが、夫は着衣に火が点き、劫火のような炎を包まれて焼死した。茶屋の下敷きになった7人も助け出されずに、いかんともしがたい最期となった。
最も震源に近い旧栄町(現在の三条市)の『栄村誌』には、尾崎集落の五十嵐家の史記として佐藤治の祖母・母からの伝聞による手記が残されている。
- 文政十一子霜月二十七日(※12日の誤り)三条大地震の話―二十七日(※12日の誤り)は風なく曇で静かにして朝五ッ時西南よりごうごうと暴風襲来の如き音と共に忽ち揺れる大地震。三条町及び一之木戸・田島の町並みは将棋倒しに家屋潰れ、続いて火事、死傷数知れず。市日なれば其混雑惨状眼もあてられず、倒壊家屋の下敷きの者、此の手を放してくれ、助けてくれ、此児を助けてくれ己は覚悟する、負傷して動けぬ者、気が狂って火に飛び込む、爛れて水に飛び込む者、橋は一つもなし、逃れる道なく、跡から跡から火の燃え移る。火を消そうとする者一人もなく、現実に見る灼熱地獄。在より市に出た者の死傷に及べり。故に壱里余りの外の福島・尾崎まで三条の火事烟り、人の焼ける臭いがしたと。
- 凡て大地震は揺り出す、直ぐ潰れるもので、福島の祖母は二十四才の時で、揺れると直ぐに横手の竹藪に遁れて走るに何回もすべりころぶ(この間、五間)唯一回家を顧みるにペチャリペチャリと軒場が地に着いた。三度目遁れた(※意味不明)と其の家に八十余りの老母が怪我もせず「汝等出してくれや」と。屋根葺を抜き出したるに、真っ黒で眼ばかりパチパチ泣くよりおかしかったと。
- 福島の伝右衛門の妻は、その日三条へ出かけたが、「ドーモ今日は行く気になれぬ」と家に帰り間もなく稲こき千歯で横腹を突き死せりと。祖母及び母の実話を筆者聞く。
- 三条へ行きし人の話―。途中トボトボしてふと見れば村々が上がったり下がったりした。是は大地震、方々で鳴る音叫ぶ音、物の破壊する音、凄惨を極むと、処々二尺三尺の亀裂を生じ、そこより濁水噴き出し向島(※刈谷田川を距てた尾崎の対岸)も同様。地震が止むと寒くと。我が家も潰れ尾崎の大半潰る筆者は各々の事情を聞き状況がわかっているが煩しければ省略す。
三条町では、205名が死亡、300人以上がけが、1,742棟のうち、1,202棟(約70%)の家が全壊し、753軒が焼失したと記録されている。
瞽女たちが語り継いだ三条地震の「地震口説」
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三条地震の翌年、震災の惨状と社会の頽廃を痛烈に詠み込んだ「瞽女口説」が広く流布した。瞽女口説は、三味線を携え、農山村の各戸に門付けしながら訪問する、盲目の女性旅芸人・瞽女たちによって語られた。
三条地震にまつわる瞽女口説には、『瞽女口説地震の身の上』と『越後地震口説』の2冊の板本が現存する。『瞽女口説地震の身の上』は1829年(文政12年)刊行、斎藤真幸が作者で、板元はきたしやのひま右衛門と記されている。一方の『越後地震口説』は、作者も板元も不明だが、語りの大部分が『瞽女口説地震の身の上』と同じもので、『瞽女口説地震の身の上』を改作して江戸で刊行されたものと考えられている。
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備えあれば憂いなし Prepare for the worst, and you'll have no regrets.
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