| Imperial Train |
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御召列車の事故
周到に準備され、最も優先的にかつ最高レベルに運行管理される御召列車。御召列車において、列車が脱線転覆し天皇、皇后、皇太后が負傷するような事故が発生したことは鉄道史上ない。しかし、いくら周到に準備され、最高に運行管理される御召列車でも、事故に至らない「インシデント」(運行障害)が発生していた。
九州鐵道門司駅での脱線事故
明治天皇の行程
| 11月7日 |
10:20 |
新橋発 |
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15:50 |
静岡着 |
| 11月8日 |
6:30 |
静岡発 |
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17:56 |
姫路着 |
| 11月9日 |
7:20 |
姫路発 |
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17:25 |
三田尻(防府)着 |
1911年(明治44年)の陸軍大演習のため、明治天皇は九州に向かった。明治天皇は、11月7日に新橋から御料車(第6号)を連結した御召列車に乗車し、その日は静岡の御用邸で宿泊した。翌日、静岡から姫路まで、9日は姫路から三田尻(現在の防府)まで御召列車は進み、明治天皇は防府の毛利公爵の別邸に宿泊した。
10日、明治天皇は三田尻を出発、11時に下関に到着した。ここで約20分休憩ののち、海軍の船艇で関門海峡を渡った。九州入りした明治天皇は、12時25分に門司を出発し15時前には大演習が開催される久留米に到着する予定だった。
しかし、御召列車に添乗していた内相兼鉄道院総裁の原敬は、明治天皇に先行して関門海峡を渡り九州鐵道門司駅(現在の門司港駅)に入ったところ、「御召列車が脱線し1時間くらいは出発を遅らさざるを得ない」ことを聞いた。
当時の鉄道院公電などによれば、当日の門司は雨模様で風も吹いていた。九州鐵道の御料車は雨で汚れるのを防ぐためシートに覆われて駅構内で待機していた。シートの紐は、門司機関庫主任の指示によりすぐにシートを取り除けるように解いてあった。下り本線に御料車を連結した特別列車の編成を入れ換えていた時、解いてあったシートの紐がポイントの転轍機に絡まり、ポイントが途中で切り替わり、入換用機関車の機関士は非常ブレーキをかけたが、御料車の後部車輪が脱線した。
御召列車の御料車が、天皇、皇后、皇太后が乗車していなかったにせよ、脱線したのは後にも先にもこの門司駅での事例しかない。
九州には御料車、御召列車の予備編成もなく(関門トンネルは開通しておらず、車輌航送も本格的になっていない)、鉄道員は脱線した御料車の復線に努めたものの、復旧には約2時間を要し、明治天皇は約1時間、門司で足止めを食らう結果となった。復旧作業の後、御料車の各部を点検した結果、異状はみつからず、明治天皇を乗せた御召列車は13時に門司駅を発った。
原敬鉄道院総裁は、久留米に到着後、渡邉千秋宮相に面会し、御料車1輌では、いつ、いかなる事が起きるかわからない、帰京後に早速1輌を新調して、行幸の際は予備として付随させる、という考えを示した。
この事故の翌日、門司駅の構内主任が幡生トンネル内で自轢死した。構内主任は「ジサツス」との書を遺していた。この自轢死は、明治天皇の耳にも達し、責任を不問とするとともに遺族に祭祀料を下賜した。そして、世間の同情も集め、弔慰金が寄せられた。また、この弔慰金の一部で殉職碑が門司市に建立された。なお、鉄道院などの責任も不問となった。
日本鐵道小牛田−瀬峰間での追突未遂事故
門司駅での御料車脱線事故に次いで大きな運行障害は、1901年(明治34年)の小牛田駅での衝突未遂事故だろう。
明治天皇は宮城県下での陸軍大演習を視察するため、11月6日上野駅を出発、7日に仙台の大本営に入った。当時、東北本線は日本鐵道という民鉄が経営していた。10日、明治天皇を乗せた御召列車は瀬峰駅に向かって仙台を発ち、途中の小牛田駅で停車した。御召列車に先行する列車が瀬峰駅に到着したという連絡が小牛田駅に入らない限り、発車させてはならない運転取扱規程となっていた。しかし、先行する列車は、牽引する蒸気機関車の蒸気圧が上がらす、小牛田と瀬峰の間で停車してしまった。この蒸気機関車については前日、蒸気圧が上がらないことを機関士が報告していた。しかし日本鐵道は修理することなく、軍の参謀などが乗車する先行列車の牽引に使った。
これでは、瀬峰駅から先行する列車到着の連絡が小牛田駅に入るまでもなく、明治天皇を乗せた御召列車は、小牛田駅で定刻を過ぎても停まったままとなった。そこで、汽車課長が「陛下をお待たせするわけにはいかない。発車させよ」と駅長に迫ったものの、駅長は「瀬峰駅から到着の連絡がない。規程を曲げて発車させるわけにはいかない」と拒んだ。しかし、汽車課長は職権により発車を命じ、御召列車は発車した。まだ先行列車は瀬峰駅には到着もせず途中で止まったままなのに、である。
職権により発車した御召列車の機関士は、前方に停車している列車を確認、すぐさま御召列車にはあるまじき急ブレーキをかけた。幸いにして衝突することなく、御召列車は停車した。
御召列車の追突事故ということには至らなかったが、運転取扱規程の閉塞違反という鉄道の安全の根幹に関わる重大事件であったが、全く新聞で報道されることはなかった。
先行列車牽引の蒸気機関車で蒸気圧が上がらない不具合があったのに、日本鐵道が点検もしなかったには理由があった。日本鉄道には日鐵矯正会という団体があった。今でいう労働組合である。この矯正会が大演習の際にストライキを企てるという噂が飛び交った。日本鐵道はこの噂にとても神経を尖らせていた。そのため、蒸気機関車の不具合も矯正会が仕組んだ罠だと日本鐵道は考えていた。しかし、その蒸気圧の不具合は事実で、罠ではなかった。日鐵矯正会はのちに警察によって解散させられた。なお、日本鐵道は社長らが政府に対し待罪書(進退伺)を提出したが、責任の所在はうやむやに落着した。
舞子(仮)駅での発車不能事故
門司駅での脱線事故、小牛田−瀬峰間での追突未遂事故のような大きな事故の他に、小さな事故はたびたびあった。
1908年(明治41年)11月、明治天皇は奈良県での陸軍大演習を統監するため、新橋から御召列車に乗車した。15日、明治天皇は奈良県での大演習を統監した後、神戸港沖での観艦式観閲のため、神戸・舞子の有栖川宮威仁親王の別邸(後の武庫離宮)に入った。18日、有栖川宮別邸前の舞子(仮)駅から御召列車が発車しようとしたら、蒸気機関車が全く動かなかった。
蒸気機関車を調べたところ、動輪の片方のロッドがデッドポイントにあった。舞子(仮)駅は東京に向かって10‰の上り勾配で、仮にデッドポイントにあっても少し強く引き出せば発車するが、御召列車では多少のショックは許されない上、停車位置が機関車本位ではなく、御料車本位で決定していたため、このような発車不能に陥った。御召列車は、ロッドの位置をずらして発車することができた。
この舞子(仮)駅での発車不能事故の他に、1911年(明治44年)9月には、皇太子(大正天皇)が乗車した御召列車が釧路線(現在の富良野線)の美瑛−上富良野間の上り勾配(28.7‰)で、蒸気圧が足りず上り切れないまま、坂の途中で停車してしまった。
このような蒸気機関車の不昇圧による途中停車は、戦前まで続いた。これは、御召列車では最上級の炭を使い、煙筒から黒煙を噴出せぬよう特に注意すべしという規定があったため、普段の蒸気機関車のコントロールとは勝手が違ったようだ。
車輌障害
機器の信頼性が高まった戦後に製造された車輌でも故障が発生した。
厳密には御料車には含まれない貴賓電車クロ157-1を連結した157系電車3輌編成では、1962年(昭和37年)に田町電車区(現在の田町車両センター)から逗子まで回送中に、力行ノッチをオフにした時に過電流表示灯が点灯し、しばらくの間ノッチが入らなくなってしまう故障が発生した。国鉄は、精緻な検査を実施したが異状は発見されず、対策として、クロ157-1を連結した編成を5輌編成に増結して、運転不能にならないように措置した。この現象の原因が判明し対策を講じた後も、宮内庁は3輌編成でよいといった一方で、国鉄は慎重を期してしばらくの間5輌編成で運行した。
また、御召列車牽引のの指定機となっているEF58形電気機関車では、新製後間もなく暖房用蒸気発生装置の信頼性が乏しく、御召列車に暖房車(「ヌ」)を連結したこともある。
周到に準備され、最も厳格に整備される御召列車においても、重大な事故に至らない「運行障害」が発生していた。その原因には、御召列車であるが故にという理由で生じた障害もある。なお、御召列車が人を轢くというような事故は、大正の中頃、習志野へ向かう御召列車が市川−下総中山間で人を撥ねたという記録が残っているが、子細は詳らかではない。
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