トップplus+上々≠ネ旅IV 2006青森(連絡船埠頭)
〔あけぼの〕
〔あけぼの〕
青森(連絡船埠頭)
〔スーパー白鳥1号〕
〔スーパー北斗13号〕
〔スーパー宗谷1号〕
〔スーパーホワイトアロー22号〕
〔北斗星2号〕
〔北斗星2号〕
上野
JôJô Tour 2006

2006年 〔北斗星〕再び… “上々”な旅IV

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 東北新幹線が新青森駅まで開業すると、青森駅はどう変化するだろうか……
 旧青森駅連絡船埠頭に係留されている「八甲田丸」。
 青函連絡船は、第二次世界大戦末期、米軍機によって壊滅的に撃沈された。
 連絡船に貨車を積み込むための可動橋も保存されていた。

青函連絡船・最終航路から18年

 青森駅の改札口も自動改札化されていて、有人改札で寝台特急〔あけぼの〕の寝台券に無効印を押してもらい、改札外に出た。通勤時間帯をはるかに過ぎた時間帯だけに、駅構内は観光客や出張客ばかりが目立つ。待合室には、予定の列車の発車時刻までの時間を過ごす人々が思い思いの時間を過ごしていた。

 駅前はバスや車がひっきりなしに行き交う。まだまだ蒸し暑い空気が身体にまとわりつく。

 青森駅の北方はもう津軽湾が広がる。そこには、青函連絡船として活躍した「八甲田丸」がメモリアルシップとして係留されている。次の特急〔スーパー白鳥1号〕まで時間があるので、散策してみることにした。

 青函連絡船は、1908年(明治41年)3月、当時の帝國鐵道廳が運航を開始し、青函トンネル(津軽海峡線)が開業した1988年(昭和63年)3月まで80年間、本州と北海道を結ぶ大動脈として活躍した。青函連絡船が青函トンネルにバトンを渡してもう18年も経つ。

 80年間も活躍しただけに、青函連絡船への愛着は捨てがたく、青森側には「八甲田丸」、函館側には「摩周丸」がそれぞれ係留されている。

昭和遺産

 青森駅から5分も歩かないうちに、青森ベイブリッジの真下を通ると、八甲田丸の姿が見えた。

 メモリアルシップ八甲田丸は、青森市の文化交流施設に位置づけられ、市の所有物となっている。現在は、特定非営利活動法人あおもりみなクラブが運営を委託されている。

>>> メモリアルシップ八甲田丸 www7.ocn.ne.jp/~hakkouda/

 八甲田丸内部も公開されているが、ゆっくりと見る時間がないので、桟橋にある展望台から眺めることにした。今にも函館に向け就航しそうな「八甲田丸」。ただ、車輌甲板は閉ざされ「HAKKODA MARU」と書かれていた。最新鋭の豪華客船にはない「昭和」を感じることができよう。

 八甲田丸は、1964年(昭和39年)8月12日に青函連絡航路に初就航し、5,382.65トン、定員1,286名の連絡船であった。23年7ヶ月、418万4,069kmを航行、12,259,055名の乗客と13,078,907トンの貨物を運び、1988年(昭和63年)3月13日、青森発下り7便の最終便として青函連絡船最終航路を飾った。

 現在の「メモリアルシップ八甲田丸」は、車輌甲板にキハ82系気動車や貨車の入れ換えに活躍したDD16型ディーゼル機関車が保存されている。往時の面影を色濃く残しているメモリアルシップ八甲田丸。青函連絡船の生き証人としていつまでも津軽海峡を見つめていてほしい。

戦禍に沈んだ連絡船

『青函連絡船戦災の碑』

 青函連絡船は、青函トンネルの完成により廃止されましたが、八〇年の歴史の中で、「戦災」の悲劇を忘れ去ることはできません。 第二次世界大戦末期の、一九四五年(昭和二〇年)七月一四日、米海軍艦載機の攻撃により、物流の大動脈であった青函連絡船「翔鳳丸」「飛鸞丸」「第二青函丸」「第六青函丸」が、八月一〇日には「亜庭丸」が青森湾で撃沈され、一三一名の犠牲者を出しました。この中に、函館船員養成所大沼分所の生徒一四名(当時一四、五歳)がおり、悲しみを一層大きくしました。
 また、七月一四・一五日に津軽海峡と函館湾でも攻撃を受け、青函連絡船は全滅をし、乗員乗客四二四名の尊い人命が失われました。
 今も、津軽海峡には「津軽丸」「第三青函丸」「第四青函丸」が、この航路に殉じた人々と共に、永久の眠りについています。
 青森市民の目前で繰り広げられた、悲惨で残酷な空襲・戦災から六〇年を経ましたが、今では、当時の惨状を止めるものはなく、人々の記憶からも薄れ、知らない世代が増え、風化されつつあります。
 青函連絡船戦災から六〇年目にあたり、この悲劇を歴史に止め、語り次ぐとともに、犠牲となられた方々のご冥福と平和を衷心より祈念し、この日を建立いたしました。
           二〇〇五年(平成一七年)七月一四日
               六〇年目の空襲・戦災の日に
「青函連絡船戦災の碑」碑文

 1954年(昭和29年)9月の台風15号(洞爺丸台風)によって、1,139名の犠牲者を出し、タイタニック号に次ぐ世界海難事故史上2番目の大惨事となった洞爺丸事故はあまりにも有名であるが、大東亜戦争(太平洋戦争:第二次世界大戦)末期、米海軍艦載機の爆撃によって津軽海峡に全滅した連絡船はあまり知られていないだろう。

 1945年(昭和20年)7月14日早朝、米海軍第38機動部隊の航空母艦から雷撃機、爆撃機、戦闘機が津軽海峡を目指した。攻撃目標は「青函連絡船」、本州と北海道の物流を徹底的に絶つことが目的だった。まず米海軍は函館側の連絡船を攻撃した(5時10分に連絡船に対し空襲警報を発信)。

  • 第四青函丸(未明に函館を出港)
     空襲警報を受け函館湾で警戒中に米海軍機に捕捉され爆撃を受け、6時20分、船倉に900キロ爆弾が命中し、5分後に船首から沈没。54名が戦死。この空襲で最初の沈没
  • 第十青函丸(避難のため函館出港)
     函館港防波堤付近で米軍機の爆撃を受け、6時30分沈没
  • 松前丸(避難のため函館出港)
     函館を出航後、爆撃を受け北転。6時30分七重浜海岸に座礁したが、船体は攻撃により猛火に包まれ総員脱出。22名が戦死
  • 第三青函丸(前夜に青森を出港、航行中)
     函館に向け航行中に空襲警報を受信し、米軍機の攻撃をかわすも7時過ぎに空中魚雷が命中、7時30分沈没。64名が戦死
  • 第七青函丸(函館ドックで工事中)
     米海軍機はドックにも攻撃を仕掛け、第七青函丸も標的にされたが、隣の岸壁にいた海防艦が応戦し、大きな損傷もなく攻撃は止んだ

 この時点では函館側にいた連絡船が攻撃を受けた。米海軍は天候が悪化したため攻撃を中断していたが、正午を過ぎた頃になると雲が切れ始め、再度攻撃を仕掛けてきた。この攻撃は函館のみならず青森側にいた連絡船もその標的となった。

  • 第六青函丸
     青森の野内沖で米軍機に捕捉され全機銃で応戦したが、沈没を避けるため婆子岬の岩礁に座礁。銃撃戦は続き、どこからともなく火の手が上がり船体が炎上。35名が戦死
  • 津軽丸(午前の空襲警報で三厩沖に逃避し警報解除を受け函館に向け航行中)
     知内村の狐越岬近くで空襲警報を受信、米軍機の攻撃に無線設備を破壊され、爆弾がボイラーに命中し、船長は総員退避を命令。15時10分に船尾から沈没。乗客52名と乗務員75名が戦死
  • 第二青函丸(青森港に停泊)
     青森港の北で小型爆弾と魚雷が命中、船体が真っ二つに折れて15時30分に沈没。戦死21名
  • 飛鸞ひらん丸(青森港に停泊)
     空襲警報を受けてジグザグ航行しながら退避行動をとるも、米軍機に捕捉され、15時20分に青森郊外で沈没。17名が戦死。これには函館船員養成所大沼分所の14〜15歳の実習生が含まれた
  • 翔鳳しょうほう丸(青森港外で投錨)
     飛鸞丸を沈没させた米軍は次の標的を翔鳳丸に定め波状攻撃を仕掛け、翔鳳丸は猛火に包まれ、15時55分沈没。47名が戦死
  • 第七青函丸(函館ドックで工事中)
     午前の攻撃をしのいだが、午後の空襲警報を受け、船を動かして退避。七重浜へ逃げるものの、米軍機の攻撃を受け航行不能となった
  • 第八青函丸(函館港で待機)
     度重なる米軍機の攻撃により、船体は激しく損傷し航行不能
  • 第一青函丸(三厩湾に避難)
     14日は発見されなかったものの15日昼に発見され、米軍機50機編隊の攻撃を受け、14時40分に沈没

 7月14日〜15日の空襲によって、12隻の連絡船は、沈没8隻、大破炎上2隻、航行不能2隻という文字通り「全滅」した。343名が戦禍に散った。

 メモリアルシップ八甲田丸を望める「青い海公園」には、「戦災の碑」が建立されている。碑の中央には爆撃される翔鳳しょうほう丸の写真が彫り込まれ、爆撃され沈没、座礁した各連絡船の位置が記された地図も彫られている。碑文によれば、津軽丸、第三青函丸、第四青函丸が津軽海峡で永久の眠りについているという。

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