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蒸気機関車「C57」
1937年(昭和12年)、C55形蒸気機関車を近代化した「C57」の1号機が登場した。現在もJR山口線で活躍する1号機は戦前に登場している。それ以降、1次・2次の169輌が1942年(昭和17年)までに製造された。1945年(昭和20年)の終戦後、旅客列車牽引用の蒸気機関車が不足したことから、3次として20輌が1946年(昭和21年)に、4次として22輌が1947年(昭和22年)に製造された。
戦災で廃車された4輌を除く197輌が四国を除く全国の優等列車の牽引に活躍した。全長の長さに比べボイラーが細く見えスタイルが美しいことから「貴婦人」と呼ばれ、戦後の復興、高度経済成長を支えた。また、幾度も御召列車を牽引する栄光に浴した(蒸気機関車が牽引した最後の御召列車もC57形蒸気機関車だった)。
1975年(昭和50年)12月14日、室蘭本線・室蘭−岩見沢間の225レをC57 135号機が牽引し、国鉄最後の蒸気機関車牽引旅客列車となった。
一方、C57の3次車である180号機は、1946年(昭和21年)に三菱重工業で製造された。完成後すぐに新潟機関区に配置され、1963年(昭和38年)には新津機関区に移ったものの、一貫して新潟県内に配置され、北は秋田、南は直江津、東は会津若松までを受け持ち、急行〔日本海〕や電車化される以前の急行〔佐渡〕などの牽引に活躍した。
1969年(昭和44年)に、羽越本線や磐越西線での運行が無煙化によって縮小し、180号機も他の機関区への転属が予定されていた。しかし、「鉄道の街」を自負する新津では、新津機関区(現在のJR東日本新津運輸区)の関係者をはじめ「新津に蒸気機関車を1輌だけでも残したい」との声が上がり、180号機が保存機に決定した。9月30日に磐越西線・日出谷−新津間での旅客列車の牽引用を最後に運用から離脱。180号機は、10月12日に新津駅からの引込線を延長した仮説線路によって新津市立新津第一小学校に自力で回送され、そのまま静態保存されることとなった。全国に多くの蒸気機関車が保存されているが、保存場所まで自力で動いたのは、おそらくこの「C57」180号機ぐらいではないだろうか。それもわざわざ仮設の線路を敷いたというのだから、新津市民の蒸気機関車に対する愛情、「鉄道の街」たる自負は如何ばかりだったかは察するに余りある。余力を残して新津第一小に到着した「C57」180号機は、鉄路からの惜別の汽笛を幾度も鳴らしながら、蒸気圧が低下、最後には汽笛の音の小さくなっていったという。この様子は、新潟市新津鉄道資料館に展示されている。「C57」180号機の走行距離は169万1,096.3km(地球と月の間を約2往復)。
以来、「新津市蒸気機関車保存協力会」や新津第一小の児童らの手によって、手厚く整備清掃が続けられていた。〔SLばんえつ物語〕として復活できたのも、この保存会や新津第一小の児童らの長年の整備によるものであるという。
時は流れ、元号も平成へと代わった1998年(平成10年)3月6日、新津第一小学校で「お別れ」の式が開かれた。本線復活の決定を受け、JR東日本大宮工場へ運ばれる日であった。「C57
180 H10.3.6 第一小学校」と描かれた記念のプレートが贈られ、現役時代よりも長く過ごした新津第一小学校を後にした。記念のプレートは「C57」180号機の炭水車に掲げられている。
そして、「C57」180号機は、今も、安息の地だった新津第一小学校を眺めながら、磐越西線で活躍を続けている。
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