その先へ――
(( 編集中 ))
国鉄分割民営化へ動いていた「国鉄激動期」、国鉄内部から改革を進めた「3人組」(松田昌士(まつだまさたけ)氏、葛西敬之(かさいよしゆき)氏、井手正敬(いでまさたか)氏)は、つとに有名である。彼ら3人組を支えいたのが『東北・上越新幹線 東北・上越から山形・秋田・長野新幹線まで20年のあゆみ』を記した山之内秀一郎(やまのうちしゅういちろう)氏である。山之内氏は、国鉄の分割民営化時にJR東日本の初代副社長を務め、副会長、会長、相談役を歴任し、のちに宇宙開発事業団(現在の宇宙航空研究開発機構)の理事長も歴任した日本鉄道界の重鎮である。鉄道のトップエンジニアとして活躍した山之内氏は、前掲書のあとがきを以下のように記している。
東北・上越新幹線はいわば、国鉄が生んだ最後の双子の新幹線であった。この子たちは大変期待されて生まれてきたのだったが、決して恵まれた環境のなかで生まれたのではなかった。長兄の東海道新幹線が皆の期待を集めすくすくと育っていったし、次兄の山陽新幹線も長兄の恩恵を受けて育っていたのに対して、東北・上越新幹線の生まれた環境ははるかに厳しく、乏しい栄養のなかで、自力で生きていかなければならなかった。 生まれた時は未熟児で弱々しかったのだが、なんとか長兄の東海道新幹線の真似をしようと一生懸命だった。しかし体力の違いは歴然としていたし、育つ環境も厳しかった。周りに住む人の数は少なかったし、気候も大変厳しかった。しかし身体だけは丈夫にできていた。なんとか健康になろうと努力し、技術の学力は決して長兄たちに負けないように頑張っていたし、色々な才能をつけようと努力をした。そして二十年経ってみるとかなり立派に成長したし、多彩な性格を持つようになったし、兄たちに負けない存在になった。今この子達の住む地方の人達からはたいへん愛され、可愛がられている。そしてさらに成長をし続けている。 東北・上越新幹線を子供に例えればこんな風になろうか。両新幹線が誕生してからもう二十年になる。大宮暫定開業という変則的なスタートを切ったこの新幹線が本当に良くここまで育ったなという感慨がある。東京駅で見ていると東海道新幹線に劣らぬほど頻繁に列車が発着しているし、色も実にカラフルである。東北・上越新幹線がこれほど多様になったのにはそれなりの理由があった。東海道新幹線と比べて圧倒的に少ないお客様に対してミニ新幹線も含めて、知恵を出し、工夫をしてここまで成長してきたのだった。 新幹線は日本の鉄道の顔であり誇りでもある。東北・上越新幹線は東海道新幹線とは違う歩みと顔を持っている。
山之内秀一郎[2002]、p.175より
新幹線を我が子のように愛する氏だからこそ、記された言葉と解釈するのは、思いすぎたことだろうか……。