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History of Jôetsu Shinkansen
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新潟 中越大震災

このページでは、新潟県中越大震災・新潟県中越地震を「新潟中越大震災」と表記しています

>>>[ADDITIONs]-[新潟地震から40年]

震度7の衝撃

新潟県中越地震と震度5弱以上を観測した余震
発震 北緯 東経 M
最大
震度
最大震度
観測地
10/23 17:56 37゜17.3' 138゜52.2' 6.8 13 7 川口町
17:59 37゜18.6' 138゜51.5' 5.3 16 5強 小千谷市
18:03 37゜21.1' 138゜59.2' 6.3 9 5強 小千谷市など
18:07 37゜20.7' 138゜52.1' 5.7 15 5強 小千谷市など
18:11 37゜15.0' 138゜50.0' 6.0 12 6強 小千谷市
18:34 37゜18.2' 138゜56.0' 6.5 14 6強 十日町市など
18:36 37゜15.2' 138゜56.7' 5.1 7 5弱 小千谷市など
18:57 37゜12.2' 138゜52.0' 5.3 8 5強 小千谷市
19:36 37゜12.8' 138゜49.7' 5.3 11 5弱 小千谷市など
19:45 37゜17.6' 138゜52.8' 5.7 12 6弱 小千谷市
19:48 37゜17.7' 138゜50.4' 4.4 14 5弱 小千谷市
10/24 14:21 37゜14.5' 138゜49.8' 5.0 11 5強 小千谷市
10/25 0:28 37゜12.0' 138゜52.4' 5.3 10 5弱 小千谷市
6:04 37゜19.6' 138゜57.0' 5.8 15 5強 小千谷市など
10/27 10:40 37゜17.3' 139゜02.2' 6.1 12 6弱 入広瀬村など
11/04 8:57 37゜25.6' 138゜55.1' 5.2 18 5強 三島町など
11/08 11:15 37゜23.5' 139゜02.1' 5.9 0 5強 守門村
11/10 3:43 37゜22.0' 139゜00.2' 5.3 4 5弱 見附市
12/28 18:30 37゜19.2' 138゜59.1' 5.0 8 5弱 魚沼市

 2004年(平成16年)10月23日、17時56分00秒3――。

 北緯37度17.3分、東経138度52.2分。地下13kmの断層が一気にずれ、マグニチュード6.8の激しい揺れが新潟県中越地方を襲った。

 川口町では、震度計観測では全国初となる「震度7」(計測震度6.5)を記録した。

 その後も激しい揺れが襲い、23日24時までに最大震度6強が2回、同震度6弱が1回、同震度5強が4回と、今まで観測・記録されたことがないほどの大きな余震が相次いだ。さらに、のちの調査で、破壊力を示す加速度は、阪神・淡路大震災を3倍も上回る観測史上最大の2,515ガル(18時34分発生の余震時の川口町)を記録していた。

各地の震度記録
17時56分(本震)
18時34分(最大余震)

 夕食時に地震が発生したものの、大規模な火災が発生しなかったのは、不幸中の幸いだった。しかし、23日24時までに震度5弱以上を10回も記録し、本震では倒壊を免れた建物が全壊したところが相次いだ。10万人が近くの公共施設に避難し、それに匹敵するほどの人々が余震に怯えながら、路上や公園に身を寄せたり、自動車の車内に身を寄せ、不安な夜を過ごした。

 さらに、中山間地では土砂崩れが各地で発生し、山古志村では村全体が孤立し、翌朝の日の出まで被害状況の把握さえできず、村民は路上で一夜を明かし、ヘリコプターに「SOS」や「ミルク」の大文字を示し救助を求めた。山古志村は全村民を長岡市に避難させた。土砂崩れで川が「湖」のように堰き止められ、地震で壊れなかった家々さえ水没した。

 「新潟県中越地震」(気象庁が命名、新潟県は「新潟県中越大震災」と呼称)と命名されたこの地震で、65名の方々が死亡、4,795名が負傷し、3,175棟が全壊、2,165棟が大規模半壊、11,627棟が半壊、103,756棟の一部が損壊した(新潟県内、新潟県まとめ)。震度7を観測した川口町では全戸の98%がなんらかの被害を受けていた。

 そんななかでも、小出町の母(39)、女児(3)、男児(2)が新潟市から自宅へ戻る途中、所在が不明となり、地震発生後3日目の26日になって、3人が乗っていた車が長岡市の県道土砂崩れ現場で発見され、27日になって、男児(2)がレスキュー隊の危険を顧みない勇敢な救助活動によって救出された。残念ながら母娘は亡くなったが、それでも救出の様子はテレビで生中継され、被災地に明るいニュースが流れ、勇気づけられた。

17時56分(M6.8)の震度分布 18時34分(M6.5)の震度分布
気象庁資料より作成)
山古志村、全村避難

 養鯉発祥の地・山古志村は、人口が2,000人余、周囲を山々に囲まれ美しい棚田や棚池の景観が広がる。山古志の人々は厳しい自然と向き合い、毎冬、幾度と雪下ろしの難渋に耐えてきた。しかし、山古志の人々はたくましく、1933年(昭和8年)から16年間かけてツルハシ一本、手掘りで隧道(トンネル)を掘り続け、少しでもそれまで救えなかった命が救えるようになった。

帰ろう 大好きな山古志村に
帰ろう 時間がどんなにかかっても
帰ろう 皆んなで力を合わせて
帰ろう がんばれ! だが、新潟中越大震災では、県や他市町村との通信が途絶え、全村が孤立した。被害状況さえ翌朝夜が明けるまでわからず、村民は余震に怯えながら路上で身を寄せながら一夜を明かした。ライフラインが途絶え余震が続くなかでの村内避難は困難と判断され、全村民がヘリコプターで長岡市に避難した。しかし、生活の糧でもあり山古志の文化・闘牛のための牛たちは山古志に残すしかなかった。

 長岡市内で避難生活を余儀なくされた山古志の人々は、強靱な結束力で結ばれていた。壊滅的な被害を受けた故郷山古志を捨てる者など誰もいなかった。長岡市内8ヶ所に設置された山古志村の避難所には、右のような言葉が掲げられていた。この言葉は、山古志村出身の理容師・田中トシオ氏が書いた。これだけでも、どれほど山古志の人々が故郷・山古志を愛し、望郷の念が強いのか、うかがい知れるだろう。

「脱線」

先頭車輌(10号車)
最後尾車輌(1号車)は約30度傾いた
無惨に引きちぎられたレールが地震の衝撃を伝えている
上3点は、いずれも国土交通省航空・鉄道事故調査委員会が撮影したものを引用

 新潟中越大震災の震源域を真上には、上越新幹線が走っていた。

 東京駅21番線ホームを16時20分の定刻通りに発車した、200系電車10輌編成(K25編成)の〔とき325号〕は、ダイヤ通りに北上していた。17時37分に越後湯沢に到着した〔とき325号〕は、17時46分頃に浦佐駅を通過した。下り列車では最後のトンネルとなる滝谷トンネル内、長岡まで約8kmの地点を惰性走行の約200km/hで走行していた〔とき325号〕は、突然、激しい揺れに襲われた。

 17時56分。マグニチュード6.8。最大加速度1,750ガル。乗客151名を乗せた〔とき325号〕の運転士は突然の異変に非常ブレーキをかけた。必死にブレーキハンドルを握っていたという。それでも新幹線は走り続けた。停止した地点は地震感知の地点から約1kmも進んでいた。車掌は地震直後何が起きたかさえわからなかったという。乗客の証言では、「急ブレーキがかかり、座席から飛び上がるぐらいの衝撃だった。窓から外を見ると、火花が散った」、「ガクガクという感じの後、急にガガーッという音とともに揺れて、前のめりになり、必死に前の座席につかまって耐えた」という。車内では女性の悲鳴が上がり停電、乗客はほぼ「放心」状態に陥った。何が起こったのかさえわからぬまま、最後尾の1号車は進行方向右側に傾いた。これが、地震とわかったのは約20分後。151名の乗客は暗い車内で余震に怯えながら事態を見守る以外、なすすべはなかった。

 18時02分、〔とき325号〕の運転士から「大きく揺れた。脱線しているかもしれない」と第一報が新幹線運行本部総合指令室に飛び込んだ。18時16分には「脱線している」と再度の連絡が入った。「脱線」の報は小泉純一郎首相にも入り、地震発生直後から特別番組に切り替わっていたテレビ各局でもすぐに「脱線したもよう。けが人の有無は不明。新幹線の脱線は初めて」と報じた。東海道新幹線開業から40年、14,632日、世界最高水準の安全性を誇る高速鉄道「新幹線」は、マグニチュード6.8の直撃で、残念ながら脱線した。

 〔とき325号〕では、上り線側に大きく傾いた最後尾の1号車には若い女性の乗客1名が取り残されていた。この情報を聞きつけた車掌らが2号車側から救出に向かったが、車輌間のドアがあるはずのところには壁が大きく立ちはだかり、ドアからの救出はできなかった。運転士らが線路に降り、1号車のドアを開けて女性の乗客を救出。まだ余震が繰り返し襲ってくる中、停電した車内では乗客もお互いに励まし合いはじめていたという。

 19時30分には、〔とき325号〕を含め駅間に停止した4本の営業列車から駅間降車脱出が決定し、19時50分には、長岡駅から社員が高架橋の安全を確認しながら現場まで歩いていき、安全が確認されたら乗客に長岡駅まで高架橋上を約6km歩いてもらい避難する方針が決定した。

 まず20時に長岡駅からJR社員など10名が高架橋上を現場まで徒歩避難が可能か確認しながら歩みを進めた。続いて20時20分、乳児用のミルクとお湯を持った社員が車で出発。その後、もう一団が現場に向け出発した。

 一方、救出を待つ〔とき325号〕では、非常灯を長く灯しておくため、1号車〜4号車の乗客を5号車〜10号車に移動してもらい、1号車〜4号車の電源を切った。

 長岡駅から徒歩で出発したJR社員などは21時40分に現場に到着。これで、高架橋上を徒歩で避難することが可能と判明した。現場の高架橋から保線用の階段を降り、一般道をバスをチャーターして長岡駅まで輸送する方法も検討されたが、被災状況から事実上、徒歩での避難しか残された方法はなかった。一方、長岡駅では避難してくる乗客の受け入れ態勢が整えられていた。長岡市側が長岡聾学校にJR用の避難スペースを確保した。

 地震発生から約3時間が経過しようとしていた21時50分、いよいよ9号車と10号車から降車が開始した。現場の地上から高架橋に登った応援を含め24名が誘導にあたり、順次10号車の乗客から線路上に降りた。

 およそ35分かけて乗客151名の降車が完了し、身体の不自由な乗客6名は現場から約30m東京寄りにある保線用の階段から地上に降り、応援に駆けつけた車で長岡駅に輸送された。

 一方、自力で避難できる乗客145名はJR社員8名の随行で、約6km離れた長岡駅に向かって歩き出した。中秋の月が足下を照らすものの、限られた懐中電灯では足下は覚束なかったが、仙台市消防局や報道機関のヘリ3機がサーチライトを乗客たちに照て、足下を少しでも明るくし暗闇の不安を幾ばくか解消してくれたという。長岡駅に向かって徒歩避難途中の23時34分には震度4の余震が発生し、高架橋上も大きく揺れた。

 日付も替わった24日0時、高架橋を歩いてきた先頭が長岡駅に到着し、0時50分、身体が不自由で車で輸送された6名を含む151名の乗客を長岡駅に収容し、乗客全員にパンと牛乳が配られた。新幹線史上類を見ない救難劇は一人のけが人も出すことなく無事に完了した。既に地震発生から約7時間が経過しようとしていた。長岡駅で一息ついた乗客のうち約100名はそれぞれ自宅に帰宅し、50名が長岡市が確保した長岡聾学校の避難所に避難し、夜が明けてからバスで新潟方面に向かった。

 しかし、乗客151名にはけが人がなかったことは、「脱線死亡事故という最悪の結末を意味するもの」ではなかった。だが、「仮に」(仮定の話をするのは不謹慎なことは承知しているが)地震発生直前に上り線に対向列車がいたら……、それはどうなっていたのか、誰も知らない。

〔とき325号〕の運転士・車掌・車内販売員の手記
運転士 車掌

 私が運転士として乗務していた上越新幹線〔とき325号〕は、地震発生当日16時20分に東京駅を出発しました。越後湯沢駅を定時に発車し、長岡駅に向かい最後のトンネルである滝谷トンネルを抜けた途端、下からドーンという大きな音が聞こえました。下から突き上げられた感じがしたと同時に、大きく左右に振られ、すぐに「ただごとではない」と思い非常ブレーキをかけました。もの凄い衝撃だったので、何かに乗り上げたのかと思いましたが、間違いなく目の前には何もありませんでした。「ではこの状態は何なんだ」と考えながらブレーキレバーを強く握りしめていました。そして、列車が止まる直前になってようやく、「あっこれは凄く大きな地震が起きて、今とんでもない状態に置かれているんだ」と初めて確信しました。まず、指令に第一報の連絡をするために列車無線を使用しようとしたのですが、停電でも使用できる無線までが使用できなくなっていたのです。そのために車掌が持っている業務用の携帯電話を、運転席に持ってきてもらったのですが、「車輌がヘビのようになっているよ」と車掌から話がありました。指令に連絡をし、状況の確認と詳しいことがわかり次第、再度連絡すると話し第一報の連絡は終わりました。その後車掌に後部まで巡回をお願いし、停電になっていたので、お客さまが不安な状態にパニックにならないよう、電源の確保に努めるため停電時の処置マニュアルに従って行動しました。処置を行っていると、車掌から1号車が一番傾いていて、その中に1人だけお客さまが乗車されており、救助が必要であると話がありました。1号車へは車輌間の扉が開かない状態でしたが、線路へ降りてお客さまを救出、ケガのないことを確認しました。次に行ったのは指令への再度の連絡で、列車が脱線して動かないことを正確に報告し、お客さまをいかに安全に避難・誘導するかを考えました。救助隊が到着するまでどのくらいの時間がかかるかわかりませんでしたので、電源をなるべく長く保つため、お客さまの協力を得て、列車の前へと移動していただき、空いた車輌の電源を順次切って少しでも長く電源を確保できるように処置を行いました。

(中略)

 今まで大きな地震が起こるたびに、走行中の新幹線が直撃されたにどうなるかという思いは持っていました。けれども頭の片隅をよぎるぐらいで、現実的な思いに立ったことはありませんでした。しかし、それは自分の乗務する列車で現実となってしまいました。地震の衝撃を受け停電、そして停止するまで、後の調査によると1分40秒程度だそうですが、ものすごい恐怖感と不安感により、とても長い時間に思えました。脱線し、なおも左右に大きく車体を揺らしながら走行し続ける列車に対し、これ以上は無意味とわかっていても必死にブレーキハンドルを押し続けていたことを覚えています。その時はただ「真っすぐに走ってくれ、早く停まってくれ」と祈るばかりでした。

 幸いにして、お客さまそして乗務員にケガ人がなかったこと、そして定期的に新幹線運行本部と連絡が取れたことにより、その後の処置や行動が落ち着いてできたと思います。

(後略)

 地震発生の際に上越新幹線〔とき325号〕で車掌として乗務していました。前から2輌目の9号車に乗車していたのですが、長岡駅に到着する準備を行っているときにいきなり大きな揺れを感じました。初めは横揺れに感じ、その後すぐに縦揺れを感じました。もの凄い揺れで飛行機が鉄道の車輪を履いて着陸するような感じでした。時速約200キロで脱線し揺れは停車まで続き、凄いスピードで砂利道を走っているような感じでした。

 列車が停止してからも何が起きたのかわかりませんし、お客さまも同様の様子でした。運転士から業務用の携帯電話を持ってきてほしいと連絡があり、客室内を運転台に向かいましたが、お客さまも何が起こったかわからないためか車内は静かな状態で、不安にさせてはいけないと思い冷静に歩いて向かいました。車輌はヘビのように曲がって停車していましたが、運転台について運転士と「これは大変な地震が発生した」と認識し、指令への第一報を行い、最後部の1号車に乗車されているお客さまの救出に向かいました。

(中略)

 また、列車が止まってお客さまも不安に感じており、情報提供については良い内容はもちろんですが、悪い内容に関しても全て車内に放送しました。また、停電時はマニュアル上ではトイレの使用、タバコの喫煙はお断りするのですが、歩いて救助にくるという連絡があり、長時間の停車の中、トイレの使用や喫煙はお止めくださいということは、お客さまにも負担がかかるため、少しでも負担を軽くしようと自分で状況を判断しトイレの使用や喫煙車で別れて喫煙していただくようにしました。

 今でも、地震発生から停車までの激しい振動や、傾いている1号車を車内から見た時の惨状(普段あるはずのデッキ自動扉が無く目の前が壁)は忘れる事ができません。

(後略)

車内販売員

 上越新幹線〔とき325号〕の車内販売員として乗務中、1号車から10号車に向かってワゴン車で商品を販売していたところ、5号車で地震による大きな衝撃を受けました。最初は何が起こったのかわからない状態で、ワゴン車も私自身も横転したのですが、お客さまが手を貸してくださりワゴン車を起こすことができました。列車が停止しワゴン内を整頓していると、今度は余震で再びワゴン車も私も転倒し、再度お客さまに起こしていただきました。お客さまの声もなく車内はシーンと静まり返っており、何も考えられない状況でした。その時、2、3号車の方からお客さまが私のもとへ来られて、「1号車が横転しているが、車掌は知っているか?」と尋ねられたので、ワゴン車を直ちにデッキに置き、9号車の車掌に伝えに向かいました。ところが5・6号車間のドアが開かず先へと進めないため、6号車にいるお客さまに、1号車が横転していることを車掌に伝えていただけるよう叫んでお願いしました。そしてお客さまと一緒にドアを開けようとしたのですが、やはり開けることができませんでした。車内販売中に1号車に若い女性のお客さまが乗車されていたことを思い出し、心配でしたので折り返して1号車に向かいました。

 1号車にたどり着くと、1号車は傾きがひどく車内へ行くことができなかったので、「大丈夫ですか」と声をかけると、「大丈夫です。1人でいるので怖いです」と返事がありました。「今すぐに車掌と運転士が助けに来ますから、がんばってください」と励ましていると、車掌、運転士とJR社員と思われる男性が来て、運転士と社員のふたりが車外に出て女性の救出に向かいました。車掌と私は室内灯が消えていたため、懐中電灯の明かりを向けていたところ、無事にお客さまを救出することができました。しかし、恐怖のためかお客さまは泣かれていましたので、「大丈夫、怖い思いをしたけれど、私も同じように怖い思いをしたから。もう大丈夫ですよ」という言葉とともに、肩をさすったりとスキンシップを取りながら落ち着いていただくように努めました。また、ほかのお客さまも「怖かっただろう。空いている席に座りなさい」とお声をかけていただき、女性も落ち着かれたようでした。

 その後「長岡からこちらへ救出に向かっています」という車内放送が流れ、ワゴン車を危険のないように7号車の業務室に収容、「異常時の時こそ、お客さまは飲食品を確保されると落ち着く」という普段学んでいたことを思い出し、飲料を中心に商品を手持ちで販売しました。最初に5号車に向かったのですが、お客さま同士も商品が公平に渡るように譲り合いながら購入してくださり、ほかの号車へと販売に向かいました。

 また、お客さまかせアドバイスがあり、傾斜している2、3号車のお客さまに、比較的平坦な4〜6号車に移動をお願いしましたが、お客さまから「窓にひびが入っている」と言われました。暗くてよくわからなかったのですが、お客さまは不安そうでしたので、手のひらで窓ガラスを触り、危険がないことを確認しながら「この列車はもう走らないので危険はありません」と車内放送と同じ内容でお客さまにお声をかけ、とにかくパニックにならないように、恐怖心を少なくしようと心がけ、私を含め、お客さま同士がお互いに慰め合っていたので、車内の空気が和んだ感じもしました。

 「応援が到着しました。9号車と10号車の間から降車して、長岡駅まで歩いていただきます、10号車のお客さまから順次降車してください」と車内放送が流れたので、「私も何か手伝うことがあったら言ってください」と乗務員などに話したところ、救援に来た方から「連結部分が危険なので、全員が降りるまで、足下に気をつけるようにお客さまへ御案内してください」とのことだったので、お客さまに注意喚起をしました。そして、全員が降車したあと、歩行が困難な5〜6名のお客さまと業務用の階段と思われる非常階段のようなものを降り、軽トラックで長岡駅へと向かいました。

 地震では、私自身もとても恐怖を覚えましたが、とにかくお客さまがパニックにならないように、少しでも恐怖心を和らげられるようにと、お客さまのことを考え必死に動きました。

(( 国土交通省航空・鉄道事故調査委員会 経過報告 ))

新潟県中越地震(本震)発生時の上越新幹線列車の位置
〔とき325号〕(K25編成)
←東京 新潟→

 高崎─新潟間を地震発生時に運転していたのは、営業運転列車下り4本、上り4本、回送列車(上り)1本の計9本だった。1,935名の乗客を乗せた8本の営業列車は、停電もしくは非常ブレーキで緊急停止した。その後の動きを追った(〔とき325号〕を除く)。

  1. 〔Maxとき330号〕 (E4系電車8輌編成、乗車人員:440名)
    • 停止位置:高崎─上毛高原間(中山トンネル内)
    • 停止後の措置
      • 21:47に運転を再開。高崎まで運転し、高崎で運転を打ち切り
  2. 〔Maxとき327号〕 (E4系電車8輌編成、乗車人員:410名、乗務員:2名)
    • 停止位置:上毛高原─越後湯沢間(大清水トンネル内)
    • 停止後の措置
      • 大清水トンネル内の越後湯沢口から約5.5km地点で停電により非常停止。18:22には停電が解消されるものの、18:34〜18:53、19:46〜19:52に再度停電した。
      • トンネル内であり、携帯電話がつながらないため、車内の公衆電話に乗客が殺到、〔とき325号〕の脱線などが車内に伝わる。
      • 19:30に駅間降車脱出が決定し、500段の階段を昇る松川斜路かスロープの神立斜路からの脱出方法を検討し、乗客にトンネル内を越後湯沢寄りに3.2km歩いてもらう神立斜路からの脱出は余震・再停電のおそれもあり、約400m越後湯沢寄りの松川斜路からの脱出に決定(20:55)。
      • 22:30にガーラ湯沢のマイクロバス1台、バス2台に救援要員20名が乗り込み、地元のバス会社からのバス3台とともに松川斜路に向け出発、23:05には現地に到着。
      • 23:42に乗客の降車開始(6号車前寄りのドアから)。病気の乗客がいたため乗客の中の医師2名にも救護してもらい、第1陣として降車。松川斜路に救急車を手配。松川斜路出口にはバスが入れないため、マイクロバスがバスが待機している一般道まで200mをピストン輸送。24日0:30に第1陣がバスに乗車。以降、5台のバスで越後湯沢駅までピストン輸送。
      • 1:49に全員の降車が完了し、2:40越後湯沢駅に到着、救援完了。駅前のホテルが地震で受け入れ態勢が整わないことから、乗客は〔Maxたにがわ452号〕として運転される予定だった越後湯沢駅に停車のE4系電車で仮泊。
      • 乗客が降車したトンネル内に停車したままの列車は、運転士がそのまま車内に残り、6:27に回送。列車で一夜を明かした乗客は、172名が新幹線で東京方面へ、238名がバスで長岡・新潟方面へ(8:20)。
  3. 〔Maxたにがわ452号〕 (E4系電車8輌編成、乗車人員:0名、乗務員:3名)
    • 停止位置:越後湯沢駅構内(18:04始発予定)
    • 措置
      • ホーム上は危険と判断し、乗客を改札口まで誘導。その後、この車輌は、〔Maxとき327号〕、在来線の特急〔はくたか15号〕、〔はくたか16号〕、上越線の長岡発水上行の普通列車(1742M)から避難した乗客の「列車ホテル」となった。
  4. 〔Maxとき332号〕 (E4系電車8輌編成、乗車人員:316名、乗務員:3名)
    • 停止位置:浦佐─越後湯沢間(高架上)
    • 停止後の措置
      • 浦佐駅から約3.3kmの高架橋上で停電により非常停止。ただ、停止位置は上り勾配でかつ左カーブだったため、車内を歩くのも難しい状況だった。18:01には地震発生の情報が入る。
      • 19:04に停電が解消されるが、乗客を1号車〜4号車に移席してもらう。
      • JR貨物社長が乗客として乗車しており、車内放送で「絶対に安全であること」、「必ず安全な場所に誘導すること」を乗客に伝え、乗客の不安解消に一役買った。
      • 19:30に駅間降車脱出が決定したものの、〔Maxとき332号〕の状況把握に手間取り、20:46に停止位置から約80m東京寄りの保守用階段から高架橋を降り浦佐駅まで一般道約3.3kmを乗客に歩いて避難してもらう方法が検討されたが危険と判断し、バスとタクシーを手配、さらに大和町に乗客の避難所の確保を要請(浦佐駅も被災し収容が困難なため)。
      • 22:35には社員6名と警察官6名が浦佐駅から現地に向け出発、23:00には大和中学校に収容できるとの連絡があり、23:15に警察との協議の結果、マイクロバス2台、タクシー1台(輸送力35名)で大和中学校までピストン輸送することを決定、その頃には救援要員21名を確保。
      • 23:20に乗客の降車を開始(2号車新潟寄りドアから)、第1陣が現場から約9km離れた大和中学校に向け出発、24日0:50に乗客全員の降車が完了し、1:10に最後のバスが出発。
      • 1:30に大和中学校に全員を避難できたものの、高崎支社からの支援が遅れ、乗客の中には社員に寒さを訴え詰め寄る乗客もいた。
      • 8:20にバス7台(群馬方面から一般道経由で派遣)で乗客を越後湯沢駅まで輸送し、297名が〔Maxたにがわ434号〕(越後湯沢9:31発)で東京方面へ、19名がバスで新潟方面へ。
      • 停止した車輌は、10月31日14:56に東京新幹線車両センターへ回送。
  5. 〔とき406号〕 (200系電車10輌編成、乗車人員:160名、乗務員:2名)
    • 停止位置:長岡駅構内
    • 停止後の措置
      • 長岡駅に進入中、1号車・2号車がホームにかかった状態で停電により停止。
      • ホームにかかった1号車・2号車のドアから全員が降車。
  6. 〔とき361号〕 (200系電車10輌編成、乗車人員:238名、乗務員:3名)
    • 停止位置:長岡─燕三条間(高架上)
    • 停止後の措置
      • 信号・停電により燕三条駅まで11.6km、長岡駅まで12.4kmの高架橋上で非常停止。18:55に送電再開。
      • 19:30に駅間降車脱出が決定し、長岡寄り約300mにある見附斜路から見附駅への収容が検討されるものの、見附駅が被災・停電しており収容不能と判断され、輸送用バスの確保も難しかった。一方、東三条駅で在来線代行用にバスを確保していた。そのため、東三条駅で手配したバス5台、タクシー16台を見附駅に派遣。
      • 22:10燕三条駅などから派遣された社員が見附駅に到着し、〔とき361号〕の乗客を東三条駅に輸送することを決定し、22:14に社員が見附斜路に到着、22:30には車掌が斜路の門扉を開錠。
      • 22:40に2号車東京寄りドアから乗客の降車が開始され、22:50には見附駅に到着していたバス・タクシーが見附斜路に移動。
      • 23:30全員が降車し、バスに移乗。バス3台とタクシー5台(180名収容)が東三条駅へ、バス1台(30名収容)が燕三条駅へ、バス1台(28名収容)が見附駅へ向け出発。
      • 24日0:00に燕三条駅へ向かったバスが燕三条駅に到着。
      • 0:15バス3台とタクシー5台が東三条駅へ到着。東三条駅からは、羽生田─加茂間で停止し最徐行で東三条に到着したのち運転を打ち切った新潟発柏崎行の普通列車(1354M)を、折り返し新潟行の普通列車(459M)として振替輸送(東三条0:20発)。
      • 東三条駅に到着したバス・タクシーはその後、帯織─東光寺間で停止した長岡発新潟行の普通列車(451M)に乗車していた180名の乗客を迎えに行った。
      • ちなみに、JR東日本新潟支社は前日の10月22日に見附斜路を使って非常時訓練を実施していた。
  7. 〔とき405号〕 (E4系電車8輌編成、乗車人員:220名、乗務員:2名)
    • 停止位置:燕三条─新潟間(高架上)
    • 停止後の措置
      • 停電と信号により、燕三条から9.7km、新潟まで約22.4kmの位置で非常停止。
      • 送電が再開され、設備の点検が済んだ19:11に30km/hで運転を再開。
      • 20:10に新潟駅に到着した。
  8. 回送列車(回452C) (E4系電車8輌編成、乗車人員:0名、乗務員:2名)
    • 停止位置:浦佐─越後湯沢間(湯沢トンネル内)
    • 停止後の措置
      • 停電により非常停止。
      • 乗務員は先頭の1号車から車外に降り、1時間10分かけて約5.1km先の越後湯沢駅に退避。車輌は10月25日19:30に現地を出発し、19:45に越後湯沢駅に収容、のちに東京新幹線車両センターに移送された。

 結局、地震発生以後、23日は上越新幹線の運転を東京─新潟間の全線で終電まで中止した。

 一方、新潟県内の在来線は、上越線の小出─宮内(長岡)間、飯山線の越後川口─十日町間、信越線の柏崎─長岡間、只見線の小出─只見間で線路が歪み、土砂崩れの土砂が流入したり、架線柱が倒壊していたり、越後川口駅のホームが波打つほど崩落しているなど、甚大な被害を受けた。幸いに脱線や転覆する列車はなかったものの、新潟県内の糸魚川以西の北陸線と大糸線を除く全線で運転が停止された。下越地方を中心に順次運転が再開されたが、信越本線、上越線、飯山線、ほくほく線、越後線などが、終電まで運転を見合わせた。それでも、信越本線・東三条─新潟間や越後線の新潟─吉田間なども深夜になってから運転を再開するほどで、新潟県内の鉄道網は、有史以来の大混乱に陥ったといっても過言ではない状況だった。

路線名 旅客列車 貨物列車
抑止 乗車
人員
抑止
上越線 5本(3本) 516名
信越本線 18本(8本) 1,123名 5本(2本)
磐越西線 5本(1本) 211名
米坂線 3本(0本) 20名
羽越本線 12本(2本) 526名 2本(1本)
白新線 4本(1本) 235名 1本(0本)
越後線 7本(3本) 440名
弥彦線 2本(0本) 40名
飯山線 3本(1本) 68名
北越急行ほくほく線 4本(2本) 149名
合計 63本(21本) 3,328名 8本(3本)

 カッコ内は駅間で停止した列車。

その時〜上越線・信越本線で被災した3列車〜

 地震発生時、JR東日本新潟支社管内、JR東日本長野支社(飯山線・信越本線)、北越急行ほくほく線で営業運転していた列車は71本、うち駅と駅の間で運転していたのは24本あった。「全列車止まれ止まれ」との指令によって、全ての列車がその場に停車、発車を見合わせた。

 このうち、震源に最も近いところを運転していたのは、上越線の下り普通列車(1745M:越後中里発長岡行)と信越本線の上り普通列車(1352M:長岡発直江津行)の2列車だった。また、上越線の下り普通列車(1747M:水上発長岡行)は新清水トンネル内で停止した。

 越後堀之内─北堀之内間で被災した越後中里発長岡行普通列車は、85km/hで運転中、突然前方の空が雷のように青白く光ったと同時に列車が傾きながら持ち上がり、激しく落下した衝撃を感じ、非常ブレーキをかけた。激しい衝撃が続いたため、運転士は脱線と感じ、防護無線を発報するほどだった(実際には脱線せず)。停止後、62名の乗客を最後部の車輌に誘導し、これ以上車内にいても危険と判断し、車外へ避難するため指令に連絡を取ろうにも、無線、携帯電話ともつながらなかった。その後の余震で列車の揺れ傾きが大きくなっていくと感じた運転士と車掌は、本来は指令からの指示がない限り乗客を降車させることはできないが、事態は急を要するとして、19時30分ころ後部の運転台から乗客に降車してもらった。それとほぼ同時にJRの沿線電話で小出駅と連絡がつき応援を要請したが、小出駅も被災して応援を断念し、乗客と避難すると連絡した。約300m離れた沿線の寺の駐車場に乗客を誘導し、そこに避難していた住民と合流した。住民が堀之内町立宇賀地うかぢ小学校に避難するのに合流して、小学校に避難した。翌日になってJRの手配したバスで25名を越後湯沢駅に送った。

 長鳥駅を30秒遅れて出発した長岡発直江津行普通列車は、鼻田トンネルを出たところで、運転士が異常音でブレーキをかけると同時に急激な揺れを感じた。運転士は目の前の景色が歪んで見え、前方の線路は蛇のようにぐにゃぐにゃに曲がり、電柱は前後に揺れ、架線は上下に波打っていたという。80名の乗客は、柏崎市の防災放送が聞こえたため、比較的冷静に事態の推移を見守った。乗客の家族が現場まで直接迎えに来たので、下ろしてほしいとの要望が出始め、指令の指示の下、運転士と車掌が乗客を安全な場所まで誘導した。その後、柏崎駅からタクシー10台が駆けつけ、49名を柏崎駅まで輸送した。この車輌が現場から引き上げたのは地震発生から1ヶ月が経ようとした11月22日だった。

 新清水トンネルを運転していた水上発長岡行の普通列車は、指令からの停止指示により停止した。携帯電話は圏外で通じず、指令との無線もつながらなかったが、越後湯沢駅との無線連絡で地震発生が知らされた。余震のおそれもあり、早急にトンネルから脱出したいと運転士は指令などに指示を仰いだが、他の列車の救援で後手に回される結果となった。越後湯沢駅からの情報を流す一方、35名の乗客は、家族との安否を取りたいと車掌に訴え、越後湯沢駅との無線を通じて家族の安否を確認した。結局、土樽駅まで線路を点検し、安全が確認できたら列車を土樽駅まで運転し、土樽駅から越後湯沢駅までバスで輸送することが決まったのは22時43分。線路の安全が確認できたのは24日1時50分、2時37分に運転を再開し、2時40分に土樽駅に到着。越後湯沢駅に乗客を乗せたバスが到着したのは3時10分だった。

運転を見合わせた鉄道路線区間
(上段:地震発生直後の運転見合わせ区間、中段:24日0時時点の運転見合わせ区間、下段:24日6時時点の運転見合わせ区間)
上越新幹線
全線:東京─新潟間
全線:東京─新潟間
全線:東京─新潟間
信越本線
長野─新潟間
黒姫─東三条間
柏崎─東三条間
上越線
水上─宮内(長岡)間
水上─宮内(長岡)間
水上─宮内(長岡)間
飯山線:全線
全線:豊野─越後川口間
全線:豊野─越後川口間
全線:豊野─越後川口間
只見線
小出─大白川間
小出─大白川間
小出─只見間
磐越西線
全線:新津─郡山間
全線:新津─郡山間
新津─喜多方間
羽越本線
新津─酒田間
(運転再開)
(運転再開)
白新線
全線:新潟─新発田間
(運転再開)
(運転再開)
米坂線
今泉─坂町間
今泉─坂町間
(運転再開)
越後線
全線:柏崎─新潟間
柏崎─吉田間
柏崎─吉田間
弥彦線
全線:弥彦─東三条間
(運転再開)
(運転再開)
北陸本線
糸魚川─直江津間
糸魚川─直江津間
糸魚川─直江津間
ほくほく線
全線:六日町─犀潟間
全線:六日町─犀潟間
全線:六日町─犀潟間
ユレダス

 「早期地震検知警報システム」は、英語名Urgent Earthquake Detection and Alarm Systemからわかりやすく、さらにアメダスと関連づけて、「ユレダス」と呼ばれる警報システム。初期微動のP波(カタカタという小さな上下動)を捉え、主要動のS波(ユッサユッサという大きな左右動)が襲来する前に大きな揺れを予測し警報を発する。

 つまり、大きな左右動のS波の襲来前に、警報を発し、新幹線を緊急停止させる。もしくは完全に停車させなくとも、減速させ被害を最小限に食い止めようとするもので、東海道新幹線をはじめ、山陽新幹線、上越・東北・長野の各新幹線、東京メトロに導入されている。

 しかし、内陸直下型の地震では、震源から近いためP波とS波の時差がほとんどなく、ユレダスの効果は発揮できないと危惧されてきた。その危惧は、新潟中越大震災の〔とき325号〕の脱線事故で現実のものとなってしまった。

 ちなみに、1995年(平成7年)1月17日の阪神・淡路大震災では、地震発生時刻が5時46分と、新幹線が動き出す前だったので、高架橋などに大きな被害が出ても、営業運転中の新幹線車輌が脱線することはなかった。

 P波が伝わる平均速度は6〜13km/s、S波が伝わる平均速度は3.5〜7.5km/sで、さらに最高270km/hの新幹線車輌が緊急停止に要する時間は約90秒といわれている。これを基に、P波の平均到達速度を9.5km/s、S波の平均到達速度を5.5km/sとすると、下のグラフのように、新幹線車輌が緊急停止(ユレダスが警報を発し約90秒)してからS波が到達するのは、地震発生123秒後、距離にして震源から約1,170kmになる。これは、想定される東海地震では、博多を発ったばかりの新幹線を止めるに等しい。

 さらに、幸運にも最速のP波、最遅のS波と仮定すると、それでも地震発生33秒後、震源から約430kmの距離がないと、新幹線が停止する前にS波が襲来する。まさに「秒」単位で新幹線を少しでも速度を落とさせないと、大惨事につながりかねない。

 おぼろげにユレダスを信頼し、ありもしない「新幹線の安全神話」を信じてきた。しかし、単純な計算ながら、震源から1,000kmも離れていないとユレダスの効果(新幹線のS波到達前の完全停止)は期待できない。逆にいえば、震源から1,000km以上も離れたところで、震度6弱以上の強い地震に襲われるのは常識的に考えれば、起きることはないだろう。せめて、新幹線の高架橋が崩壊しにくくする、脱線したとしても転覆しにくくするのが、一番求められる対応策ではないだろうか。

 新潟中越大震災の新幹線脱線を教訓に、さまざまな検証、それに基づく研究が進められている。ユレダスの限界を図らずも示した新潟中越大震災と〔とき325号〕脱線事故によって、例え、新幹線車輌が、高架橋が、わずかに損傷したとしても、犠牲者を出さない「減災」に基づく地震対策システムの構築が求められている。

新潟中越大震災直前の〔とき〕

 大震災当日、10月23日の東京駅。この約4時間後、未曾有の災害が発生するとはだれも思いはしなかっただろう(画像提供:DAMASA氏)。

 左の写真は一見すると、ごく普通のある日の東京駅の発車案内の電光掲示板と思われる。だが、この写真は、新潟中越大震災が発生した2004年(平成16年)10月23日に撮影されたものだ。

 〔とき1号〕は東京を発つと新潟までノンストップの列車で、12分後には〔Maxとき319号〕がその後を追いかけていく。このあと、〔Maxとき357号〕〔Maxとき321号〕〔とき359号〕〔とき323号〕〔とき405号〕〔とき361号〕〔とき325号〕〔Maxとき327号〕〔Maxとき329号〕〔Maxとき407号〕が東京駅を発っていった。しかし、新潟に定刻に到着できたのは〔とき323号〕までで、それ以降の列車は終着・新潟に着くことさえできなかった。

〔とき〕が来ない日

 上越新幹線にとって、開業以来の大きな試練に立たされた新潟中越大震災。地震発生当日の23日は、終電まで運転を取り止め、孤立した乗客の救出、救援と、線路の安全確認に追われた。

 一夜明けた24日、日の出を待って各地から飛び立ったヘリコプターによって新潟中越大震災の被害の全貌が明らかになりつつあった。日本一といわれる魚沼米を生み出した美しい棚田は崩れ、茶色の地肌がむき出しになっていた。最大震度7、最大震度6弱以上が4回も続いた震災の凄まじい揺れだったことを物語っていた。

 24日には、被害を受けていない長野新幹線として東京─高崎間は運転を再開していたが、高崎以北では運転の見込みがたっていなかった。それでも、東京8時10分発の〔たにがわ433号〕、越後湯沢9時14分発の〔たにがわ434号〕から、1時間に1本程度ではあるが、東京─越後湯沢間の運転が再開された。しかし、JR東日本は「24日は〔とき〕の運転を終日中止する」と報道機関向けに発表しており、23日17時56分から〔とき〕は全く動かなかった。

 24日は日曜日だったため、高崎以南での通勤時間帯が目立ったものではなく、大きな混乱はなかったものの、25日以降の運転計画などの対応に追われた。しかも、24日も震度5強を最大に余震が相次ぎ、余震への対策にも追われることとなった。

 11月1日午後の東京駅20番線・21番線ホームは、閑散としていた。上下4枚は11月1日東京駅で撮影。
16時20分発〔とき325号〕は、10月23日を最後に、この案内板に掲示されることはなかった。  発車案内板には、〔とき〕の名がなかった。15時40分発の〔Maxたにがわ405号〕は、本来〔とき405号〕で運転されていた列車だった。

 10月25日からは東京─越後湯沢間で〔たにがわ〕〔Maxたにがわ〕のみを運転し、一部は〔とき〕〔Maxとき〕のダイヤを〔たにがわ〕〔Maxたにがわ〕に組み替え、運転本数を確保した。

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