| History of Jôetsu Shinkansen |
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新潟 中越大震災
このページでは、新潟県中越大震災・新潟県中越地震を「新潟中越大震災」と表記しています
>>>[ADDITIONs]-[新潟地震から40年]
震度7の衝撃
新潟県中越地震と震度5弱以上を観測した余震
| 発震 |
北緯 |
東経 |
M |
深
さ |
最大
震度 |
最大震度
観測地 |
| 10/23 |
17:56 |
37゜17.3' |
138゜52.2' |
6.8 |
13 |
7 |
川口町 |
| 17:59 |
37゜18.6' |
138゜51.5' |
5.3 |
16 |
5強 |
小千谷市 |
| 18:03 |
37゜21.1' |
138゜59.2' |
6.3 |
9 |
5強 |
小千谷市など |
| 18:07 |
37゜20.7' |
138゜52.1' |
5.7 |
15 |
5強 |
小千谷市など |
| 18:11 |
37゜15.0' |
138゜50.0' |
6.0 |
12 |
6強 |
小千谷市 |
| 18:34 |
37゜18.2' |
138゜56.0' |
6.5 |
14 |
6強 |
十日町市など |
| 18:36 |
37゜15.2' |
138゜56.7' |
5.1 |
7 |
5弱 |
小千谷市など |
| 18:57 |
37゜12.2' |
138゜52.0' |
5.3 |
8 |
5強 |
小千谷市 |
| 19:36 |
37゜12.8' |
138゜49.7' |
5.3 |
11 |
5弱 |
小千谷市など |
| 19:45 |
37゜17.6' |
138゜52.8' |
5.7 |
12 |
6弱 |
小千谷市 |
| 19:48 |
37゜17.7' |
138゜50.4' |
4.4 |
14 |
5弱 |
小千谷市 |
| 10/24 |
14:21 |
37゜14.5' |
138゜49.8' |
5.0 |
11 |
5強 |
小千谷市 |
| 10/25 |
0:28 |
37゜12.0' |
138゜52.4' |
5.3 |
10 |
5弱 |
小千谷市 |
| 6:04 |
37゜19.6' |
138゜57.0' |
5.8 |
15 |
5強 |
小千谷市など |
| 10/27 |
10:40 |
37゜17.3' |
139゜02.2' |
6.1 |
12 |
6弱 |
入広瀬村など |
| 11/04 |
8:57 |
37゜25.6' |
138゜55.1' |
5.2 |
18 |
5強 |
三島町など |
| 11/08 |
11:15 |
37゜23.5' |
139゜02.1' |
5.9 |
0 |
5強 |
守門村 |
| 11/10 |
3:43 |
37゜22.0' |
139゜00.2' |
5.3 |
4 |
5弱 |
見附市 |
| 12/28 |
18:30 |
37゜19.2' |
138゜59.1' |
5.0 |
8 |
5弱 |
魚沼市 |
2004年(平成16年)10月23日、17時56分00秒3――。
北緯37度17.3分、東経138度52.2分。地下13kmの断層が一気にずれ、マグニチュード6.8の激しい揺れが新潟県中越地方を襲った。
川口町では、震度計観測では全国初となる「震度7」(計測震度6.5)を記録した。
その後も激しい揺れが襲い、23日24時までに最大震度6強が2回、同震度6弱が1回、同震度5強が4回と、今まで観測・記録されたことがないほどの大きな余震が相次いだ。さらに、のちの調査で、破壊力を示す加速度は、阪神・淡路大震災を3倍も上回る観測史上最大の2,515ガル(18時34分発生の余震時の川口町)を記録していた。
各地の震度記録
17時56分(本震)
18時34分(最大余震)
夕食時に地震が発生したものの、大規模な火災が発生しなかったのは、不幸中の幸いだった。しかし、23日24時までに震度5弱以上を10回も記録し、本震では倒壊を免れた建物が全壊したところが相次いだ。10万人が近くの公共施設に避難し、それに匹敵するほどの人々が余震に怯えながら、路上や公園に身を寄せたり、自動車の車内に身を寄せ、不安な夜を過ごした。
さらに、中山間地では土砂崩れが各地で発生し、山古志村では村全体が孤立し、翌朝の日の出まで被害状況の把握さえできず、村民は路上で一夜を明かし、ヘリコプターに「SOS」や「ミルク」の大文字を示し救助を求めた。山古志村は全村民を長岡市に避難させた。土砂崩れで川が「湖」のように堰き止められ、地震で壊れなかった家々さえ水没した。
「新潟県中越地震」(気象庁が命名、新潟県は「新潟県中越大震災」と呼称)と命名されたこの地震で、65名の方々が死亡、4,795名が負傷し、3,175棟が全壊、2,165棟が大規模半壊、11,627棟が半壊、103,756棟の一部が損壊した(新潟県内、新潟県まとめ)。震度7を観測した川口町では全戸の98%がなんらかの被害を受けていた。
そんななかでも、小出町の母(39)、女児(3)、男児(2)が新潟市から自宅へ戻る途中、所在が不明となり、地震発生後3日目の26日になって、3人が乗っていた車が長岡市の県道土砂崩れ現場で発見され、27日になって、男児(2)がレスキュー隊の危険を顧みない勇敢な救助活動によって救出された。残念ながら母娘は亡くなったが、それでも救出の様子はテレビで生中継され、被災地に明るいニュースが流れ、勇気づけられた。
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| 17時56分(M6.8)の震度分布 |
18時34分(M6.5)の震度分布 |
| (気象庁資料より作成) |
「脱線」
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| 先頭車輌(10号車) |
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| 最後尾車輌(1号車)は約30度傾いた |
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| 無惨に引きちぎられたレールが地震の衝撃を伝えている |
| 上3点は、いずれも国土交通省航空・鉄道事故調査委員会が撮影したものを引用 |
新潟中越大震災の震源域を真上には、上越新幹線が走っていた。
東京駅21番線ホームを16時20分の定刻通りに発車した、200系電車10輌編成(K25編成)の〔とき325号〕は、ダイヤ通りに北上していた。17時37分に越後湯沢に到着した〔とき325号〕は、17時46分頃に浦佐駅を通過した。下り列車では最後のトンネルとなる滝谷トンネル内、長岡まで約8kmの地点を惰性走行の約200km/hで走行していた〔とき325号〕は、突然、激しい揺れに襲われた。
17時56分。マグニチュード6.8。最大加速度1,750ガル。乗客151名を乗せた〔とき325号〕の運転士は突然の異変に非常ブレーキをかけた。必死にブレーキハンドルを握っていたという。それでも新幹線は走り続けた。停止した地点は地震感知の地点から約1kmも進んでいた。車掌は地震直後何が起きたかさえわからなかったという。乗客の証言では、「急ブレーキがかかり、座席から飛び上がるぐらいの衝撃だった。窓から外を見ると、火花が散った」、「ガクガクという感じの後、急にガガーッという音とともに揺れて、前のめりになり、必死に前の座席につかまって耐えた」という。車内では女性の悲鳴が上がり停電、乗客はほぼ「放心」状態に陥った。何が起こったのかさえわからぬまま、最後尾の1号車は進行方向右側に傾いた。これが、地震とわかったのは約20分後。151名の乗客は暗い車内で余震に怯えながら事態を見守る以外、なす術はなかった。
18時02分、〔とき325号〕の運転士から「大きく揺れた。脱線しているかもしれない」と第一報が新幹線運行本部総合指令室に飛び込んだ。18時16分には「脱線している」と再度の連絡が入った。「脱線」の報は小泉純一郎首相にも入り、地震発生直後から特別番組に切り替わっていたテレビ各局でもすぐに「脱線したもよう。けが人の有無は不明。新幹線の脱線は初めて」と報じた。東海道新幹線開業から40年、14,632日、世界最高水準の安全性を誇る高速鉄道「新幹線」は、マグニチュード6.8の直撃で、残念ながら脱線した。
〔とき325号〕では、上り線側に大きく傾いた最後尾の1号車には若い女性の乗客1名が取り残されていた。この情報を聞きつけた車掌らが2号車側から救出に向かったが、車輌間のドアがあるはずのところには壁が大きく立ちはだかり、ドアからの救出はできなかった。運転士らが線路に降り、1号車のドアを開けて女性の乗客を救出。まだ余震が繰り返し襲ってくる中、停電した車内では乗客もお互いに励まし合いはじめていたという。
19時30分には、〔とき325号〕を含め駅間に停止した4本の営業列車から駅間降車脱出が決定し、19時50分には、長岡駅から社員が高架橋の安全を確認しながら現場まで歩いていき、安全が確認されたら乗客に長岡駅まで高架橋上を約6km歩いてもらい避難する方針が決定した。
まず20時に長岡駅からJR社員など10名が高架橋上を現場まで徒歩避難が可能か確認しながら歩みを進めた。続いて20時20分、乳児用のミルクとお湯を持った社員が車で出発。その後、もう一団が現場に向け出発した。
一方、救出を待つ〔とき325号〕では、非常灯を長く灯しておくため、1号車〜4号車の乗客を5号車〜10号車に移動してもらい、1号車〜4号車の電源を切った。
長岡駅から徒歩で出発したJR社員などは21時40分に現場に到着。これで、高架橋上を徒歩で避難することが可能と判明した。現場の高架橋から保線用の階段を降り、一般道をバスをチャーターして長岡駅まで輸送する方法も検討されたが、被災状況から事実上、徒歩での避難しか残された方法はなかった。一方、長岡駅では避難してくる乗客の受け入れ態勢が整えられていた。長岡市側が長岡聾学校にJR用の避難スペースを確保した。
地震発生から約3時間が経過しようとしていた21時50分、いよいよ9号車と10号車から降車が開始した。現場の地上から高架橋に登った応援を含め24名が誘導にあたり、順次10号車の乗客から線路上に降りた。
およそ35分かけて乗客151名の降車が完了し、身体の不自由な乗客6名は現場から約30m東京寄りにある保線用の階段から地上に降り、応援に駆けつけた車で長岡駅に輸送された。
一方、自力で避難できる乗客145名はJR社員8名の随行で、約6km離れた長岡駅に向かって歩き出した。中秋の月が足下を照らすものの、限られた懐中電灯では足下は覚束なかったが、仙台市消防局や報道機関のヘリ3機がサーチライトを乗客たちに照て、足下を少しでも明るくし暗闇の不安を幾ばくか解消してくれたという。長岡駅に向かって徒歩避難途中の23時34分には震度4の余震が発生し、高架橋上も大きく揺れた。
日付も替わった24日0時、高架橋を歩いてきた先頭が長岡駅に到着し、0時50分、身体が不自由で車で輸送された6名を含む151名の乗客を長岡駅に収容し、乗客全員にパンと牛乳が配られた。新幹線史上類を見ない救難劇は一人のけが人も出すことなく無事に完了した。既に地震発生から約7時間が経過しようとしていた。長岡駅で一息ついた乗客のうち約100名はそれぞれ自宅に帰宅し、50名が長岡市が確保した長岡聾学校の避難所に避難し、夜が明けてからバスで新潟方面に向かった。
しかし、乗客151名にはけが人がなかったことは、「脱線死亡事故という最悪の結末を意味するもの」ではなかった。だが、「仮に」(仮定の話をするのは不謹慎なことは承知しているが)地震発生直前に上り線に対向列車がいたら……、それはどうなっていたのか、誰も知らない。
(( 国土交通省航空・鉄道事故調査委員会 経過報告 ))
| 新潟県中越地震(本震)発生時の上越新幹線列車の位置 |
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| 〔とき325号〕(K25編成) |
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高崎─新潟間を地震発生時に運転していたのは、営業運転列車下り4本、上り4本、回送列車(上り)1本の計9本だった。1,935名の乗客を乗せた8本の営業列車は、停電もしくは非常ブレーキで緊急停止した。その後の動きを追った(〔とき325号〕を除く)。
- 〔Maxとき330号〕 (E4系電車8輌編成、乗車人員:440名)
- 停止位置:高崎─上毛高原間(中山トンネル内)
- 停止後の措置
- 21:47に運転を再開。高崎まで運転し、高崎で運転を打ち切り
- 〔Maxとき327号〕 (E4系電車8輌編成、乗車人員:410名、乗務員:2名)
- 停止位置:上毛高原─越後湯沢間(大清水トンネル内)
- 停止後の措置
- 大清水トンネル内の越後湯沢口から約5.5km地点で停電により非常停止。18:22には停電が解消されるものの、18:34〜18:53、19:46〜19:52に再度停電した。
- トンネル内であり、携帯電話がつながらないため、車内の公衆電話に乗客が殺到、〔とき325号〕の脱線などが車内に伝わる。
- 19:30に駅間降車脱出が決定し、500段の階段を昇る松川斜路かスロープの神立斜路からの脱出方法を検討し、乗客にトンネル内を越後湯沢寄りに3.2km歩いてもらう神立斜路からの脱出は余震・再停電のおそれもあり、約400m越後湯沢寄りの松川斜路からの脱出に決定(20:55)。
- 22:30にガーラ湯沢のマイクロバス1台、バス2台に救援要員20名が乗り込み、地元のバス会社からのバス3台とともに松川斜路に向け出発、23:05には現地に到着。
- 23:42に乗客の降車開始(6号車前寄りのドアから)。病気の乗客がいたため乗客の中の医師2名にも救護してもらい、第1陣として降車。松川斜路に救急車を手配。松川斜路出口にはバスが入れないため、マイクロバスがバスが待機している一般道まで200mをピストン輸送。24日0:30に第1陣がバスに乗車。以降、5台のバスで越後湯沢駅までピストン輸送。
- 1:49に全員の降車が完了し、2:40越後湯沢駅に到着、救援完了。駅前のホテルが地震で受け入れ態勢が整わないことから、乗客は〔Maxたにがわ452号〕として運転される予定だった越後湯沢駅に停車のE4系電車で仮泊。
- 乗客が降車したトンネル内に停車したままの列車は、運転士がそのまま車内に残り、6:27に回送。列車で一夜を明かした乗客は、172名が新幹線で東京方面へ、238名がバスで長岡・新潟方面へ(8:20)。
- 〔Maxたにがわ452号〕 (E4系電車8輌編成、乗車人員:0名、乗務員:3名)
- 停止位置:越後湯沢駅構内(18:04始発予定)
- 措置
- ホーム上は危険と判断し、乗客を改札口まで誘導。その後、この車輌は、〔Maxとき327号〕、在来線の特急〔はくたか15号〕、〔はくたか16号〕、上越線の長岡発水上行の普通列車(1742M)から避難した乗客の「列車ホテル」となった。
- 〔Maxとき332号〕 (E4系電車8輌編成、乗車人員:316名、乗務員:3名)
- 停止位置:浦佐─越後湯沢間(高架上)
- 停止後の措置
- 浦佐駅から約3.3kmの高架橋上で停電により非常停止。ただ、停止位置は上り勾配でかつ左カーブだったため、車内を歩くのも難しい状況だった。18:01には地震発生の情報が入る。
- 19:04に停電が解消されるが、乗客を1号車〜4号車に移席してもらう。
- JR貨物社長が乗客として乗車しており、車内放送で「絶対に安全であること」、「必ず安全な場所に誘導すること」を乗客に伝え、乗客の不安解消に一役買った。
- 19:30に駅間降車脱出が決定したものの、〔Maxとき332号〕の状況把握に手間取り、20:46に停止位置から約80m東京寄りの保守用階段から高架橋を降り浦佐駅まで一般道約3.3kmを乗客に歩いて避難してもらう方法が検討されたが危険と判断し、バスとタクシーを手配、さらに大和町に乗客の避難所の確保を要請(浦佐駅も被災し収容が困難なため)。
- 22:35には社員6名と警察官6名が浦佐駅から現地に向け出発、23:00には大和中学校に収容できるとの連絡があり、23:15に警察との協議の結果、マイクロバス2台、タクシー1台(輸送力35名)で大和中学校までピストン輸送することを決定、その頃には救援要員21名を確保。
- 23:20に乗客の降車を開始(2号車新潟寄りドアから)、第1陣が現場から約9km離れた大和中学校に向け出発、24日0:50に乗客全員の降車が完了し、1:10に最後のバスが出発。
- 1:30に大和中学校に全員を避難できたものの、高崎支社からの支援が遅れ、乗客の中には社員に寒さを訴え詰め寄る乗客もいた。
- 8:20にバス7台(群馬方面から一般道経由で派遣)で乗客を越後湯沢駅まで輸送し、297名が〔Maxたにがわ434号〕(越後湯沢9:31発)で東京方面へ、19名がバスで新潟方面へ。
- 停止した車輌は、10月31日14:56に東京新幹線車両センターへ回送。
- 〔とき406号〕 (200系電車10輌編成、乗車人員:160名、乗務員:2名)
- 停止位置:長岡駅構内
- 停止後の措置
- 長岡駅に進入中、1号車・2号車がホームにかかった状態で停電により停止。
- ホームにかかった1号車・2号車のドアから全員が降車。
- 〔とき361号〕 (200系電車10輌編成、乗車人員:238名、乗務員:3名)
- 停止位置:長岡─燕三条間(高架上)
- 停止後の措置
- 信号・停電により燕三条駅まで11.6km、長岡駅まで12.4kmの高架橋上で非常停止。18:55に送電再開。
- 19:30に駅間降車脱出が決定し、長岡寄り約300mにある見附斜路から見附駅への収容が検討されるものの、見附駅が被災・停電しており収容不能と判断され、輸送用バスの確保も難しかった。一方、東三条駅で在来線代行用にバスを確保していた。そのため、東三条駅で手配したバス5台、タクシー16台を見附駅に派遣。
- 22:10燕三条駅などから派遣された社員が見附駅に到着し、〔とき361号〕の乗客を東三条駅に輸送することを決定し、22:14に社員が見附斜路に到着、22:30には車掌が斜路の門扉を開錠。
- 22:40に2号車東京寄りドアから乗客の降車が開始され、22:50には見附駅に到着していたバス・タクシーが見附斜路に移動。
- 23:30全員が降車し、バスに移乗。バス3台とタクシー5台(180名収容)が東三条駅へ、バス1台(30名収容)が燕三条駅へ、バス1台(28名収容)が見附駅へ向け出発。
- 24日0:00に燕三条駅へ向かったバスが燕三条駅に到着。
- 0:15バス3台とタクシー5台が東三条駅へ到着。東三条駅からは、羽生田─加茂間で停止し最徐行で東三条に到着したのち運転を打ち切った新潟発柏崎行の普通列車(1354M)を、折り返し新潟行の普通列車(459M)として振替輸送(東三条0:20発)。
- 東三条駅に到着したバス・タクシーはその後、帯織─東光寺間で停止した長岡発新潟行の普通列車(451M)に乗車していた180名の乗客を迎えに行った。
- ちなみに、JR東日本新潟支社は前日の10月22日に見附斜路を使って非常時訓練を実施していた。
- 〔とき405号〕 (E4系電車8輌編成、乗車人員:220名、乗務員:2名)
- 停止位置:燕三条─新潟間(高架上)
- 停止後の措置
- 停電と信号により、燕三条から9.7km、新潟まで約22.4kmの位置で非常停止。
- 送電が再開され、設備の点検が済んだ19:11に30km/hで運転を再開。
- 20:10に新潟駅に到着した。
- 回送列車(回452C) (E4系電車8輌編成、乗車人員:0名、乗務員:2名)
- 停止位置:浦佐─越後湯沢間(湯沢トンネル内)
- 停止後の措置
- 停電により非常停止。
- 乗務員は先頭の1号車から車外に降り、1時間10分かけて約5.1km先の越後湯沢駅に退避。車輌は10月25日19:30に現地を出発し、19:45に越後湯沢駅に収容、のちに東京新幹線車両センターに移送された。
結局、地震発生以後、23日は上越新幹線の運転を東京─新潟間の全線で終電まで中止した。
一方、新潟県内の在来線は、上越線の小出─宮内(長岡)間、飯山線の越後川口─十日町間、信越線の柏崎─長岡間、只見線の小出─只見間で線路が歪み、土砂崩れの土砂が流入したり、架線柱が倒壊していたり、越後川口駅のホームが波打つほど崩落しているなど、甚大な被害を受けた。幸いに脱線や転覆する列車はなかったものの、新潟県内の糸魚川以西の北陸線と大糸線を除く全線で運転が停止された。下越地方を中心に順次運転が再開されたが、信越本線、上越線、飯山線、ほくほく線、越後線などが、終電まで運転を見合わせた。それでも、信越本線・東三条─新潟間や越後線の新潟─吉田間なども深夜になってから運転を再開するほどで、新潟県内の鉄道網は、有史以来の大混乱に陥ったといっても過言ではない状況だった。
| 路線名 |
旅客列車 |
貨物列車 |
| 抑止 |
乗車
人員 |
抑止 |
| 上越線 |
5本(3本) |
516名 |
|
| 信越本線 |
18本(8本) |
1,123名 |
5本(2本) |
| 磐越西線 |
5本(1本) |
211名 |
|
| 米坂線 |
3本(0本) |
20名 |
|
| 羽越本線 |
12本(2本) |
526名 |
2本(1本) |
| 白新線 |
4本(1本) |
235名 |
1本(0本) |
| 越後線 |
7本(3本) |
440名 |
|
| 弥彦線 |
2本(0本) |
40名 |
|
| 飯山線 |
3本(1本) |
68名 |
|
| 北越急行ほくほく線 |
4本(2本) |
149名 |
|
| 合計 |
63本(21本) |
3,328名 |
8本(3本) |
カッコ内は駅間で停止した列車。
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|
| 運転を見合わせた鉄道路線区間 |
| (上段:地震発生直後の運転見合わせ区間、中段:24日0時時点の運転見合わせ区間、下段:24日6時時点の運転見合わせ区間) |
- 上越新幹線
- 全線:東京─新潟間
- 全線:東京─新潟間
- 全線:東京─新潟間
- 信越本線
- 長野─新潟間
- 黒姫─東三条間
- 柏崎─東三条間
- 上越線
- 水上─宮内(長岡)間
- 水上─宮内(長岡)間
- 水上─宮内(長岡)間
- 飯山線:全線
- 全線:豊野─越後川口間
- 全線:豊野─越後川口間
- 全線:豊野─越後川口間
|
- 只見線
- 小出─大白川間
- 小出─大白川間
- 小出─只見間
- 磐越西線
- 全線:新津─郡山間
- 全線:新津─郡山間
- 新津─喜多方間
- 羽越本線
- 新津─酒田間
- (運転再開)
- (運転再開)
- 白新線
- 全線:新潟─新発田間
- (運転再開)
- (運転再開)
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- 米坂線
- 今泉─坂町間
- 今泉─坂町間
- (運転再開)
- 越後線
- 全線:柏崎─新潟間
- 柏崎─吉田間
- 柏崎─吉田間
- 弥彦線
- 全線:弥彦─東三条間
- (運転再開)
- (運転再開)
- 北陸本線
- 糸魚川─直江津間
- 糸魚川─直江津間
- 糸魚川─直江津間
- ほくほく線
- 全線:六日町─犀潟間
- 全線:六日町─犀潟間
- 全線:六日町─犀潟間
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新潟中越大震災直前の〔とき〕
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| 大震災当日、10月23日の東京駅。この約4時間後、未曾有の災害が発生するとはだれも思いはしなかっただろう(画像提供:DAMASA氏)。 |
左の写真は一見すると、ごく普通のある日の東京駅の発車案内の電光掲示板と思われる。だが、この写真は、新潟中越大震災が発生した2004年(平成16年)10月23日に撮影されたものだ。
〔とき1号〕は東京を発つと新潟までノンストップの列車で、12分後には〔Maxとき319号〕がその後を追いかけていく。このあと、〔Maxとき357号〕〔Maxとき321号〕〔とき359号〕〔とき323号〕〔とき405号〕〔とき361号〕〔とき325号〕〔Maxとき327号〕〔Maxとき329号〕〔Maxとき407号〕が東京駅を発っていった。しかし、新潟に定刻に到着できたのは〔とき323号〕までで、それ以降の列車は終着・新潟に着くことさえできなかった。
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〔とき〕が来ない日
上越新幹線にとって、開業以来の大きな試練に立たされた新潟中越大震災。地震発生当日の23日は、終電まで運転を取り止め、孤立した乗客の救出、救援と、線路の安全確認に追われた。
一夜明けた24日、日の出を待って各地から飛び立ったヘリコプターによって新潟中越大震災の被害の全貌が明らかになりつつあった。日本一といわれる魚沼米を生み出した美しい棚田は崩れ、茶色の地肌がむき出しになっていた。最大震度7、最大震度6弱以上が4回も続いた震災の凄まじい揺れだったことを物語っていた。
24日には、被害を受けていない長野新幹線として東京─高崎間は運転を再開していたが、高崎以北では運転の見込みがたっていなかった。それでも、東京8時10分発の〔たにがわ433号〕、越後湯沢9時14分発の〔たにがわ434号〕から、1時間に1本程度ではあるが、東京─越後湯沢間の運転が再開された。しかし、JR東日本は「24日は〔とき〕の運転を終日中止する」と報道機関向けに発表しており、23日17時56分から〔とき〕は全く動かなかった。
24日は日曜日だったため、高崎以南での通勤時間帯が目立ったものではなく、大きな混乱はなかったものの、25日以降の運転計画などの対応に追われた。しかも、24日も震度5強を最大に余震が相次ぎ、余震への対策にも追われることとなった。
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| 11月1日午後の東京駅20番線・21番線ホームは、閑散としていた。上下4枚は11月1日東京駅で撮影。 |
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| 16時20分発〔とき325号〕は、10月23日を最後に、この案内板に掲示されることはなかった。 |
発車案内板には、〔とき〕の名がなかった。15時40分発の〔Maxたにがわ405号〕は、本来〔とき405号〕で運転されていた列車だった。 |
10月25日からは東京─越後湯沢間で〔たにがわ〕〔Maxたにがわ〕のみを運転し、一部は〔とき〕〔Maxとき〕のダイヤを〔たにがわ〕〔Maxたにがわ〕に組み替え、運転本数を確保した。
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