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History of Jôetsu Shinkansen
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朱鷺ととにも

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 1998年(平成10年)、日本を国賓として訪問した中国の江沢民国家主席が、皇居での天皇陛下との会見で、日中友好の証として「朱鷺1対」を日本に贈呈することを明らかにした。新潟県佐渡ヶ島の佐渡トキ保護センターでは、高齢のキンが余生を楽しんでいたが、それは「純国産朱鷺の絶滅」をも意味していた。

 1999年(平成11年)1月30日、「友友ヨウヨウ」(雄)、「洋洋ヤンヤン」(雌)と名づけられた2羽の朱鷺は、佐渡空港への臨時便で佐渡ヶ島に到着した。佐渡トキ保護センターでは約200人の島民が朱鷺の到着を出迎えた。5月21日15時30分、「洋洋」から産まれた卵のうちの1つが孵化し、国内で初めて、人工繁殖による朱鷺が誕生した。この1羽は、国内で初めての人工繁殖成功したという意味あいよりも、絶滅に瀕している朱鷺が「もう一度、日本の大空をはばたく」という希望の光が見えてきたことに、佐渡トキ保護センターをはじめ、佐渡ヶ島、新潟県、ひいては日本国内が朱鷺誕生の喜びに沸いた。このひなは「優優ユウユウ」と名づけられた。さらに、2000年(平成12年)に2羽、2001年(平成13年)には11羽が誕生し、絶滅の危機に瀕していた朱鷺は、中国からの貴重な贈り物で、みごとに再生された。

 確かに、佐渡に生息する朱鷺は、佐渡にとって「有力な観光資源」であることに間違いはない。「絶滅の危機に瀕している朱鷺を観光資源=人間への見せ物にしよう」というのには強い反発があることは確かだ。しかし、朱鷺は、佐渡にとって有力な観光資源である以上に、“佐渡のシンボル”であり、佐渡ヶ島の誇り≠ナもある。そして何より、朱鷺は私たち人間に自然を大切にしなければならない心を教えてくれ続けている。効率的な農業と朱鷺に優しい無農薬農業の狭間で悩み続け無農薬農業を選んだ人々、朱鷺をどうやって佐渡の自然に帰化させるのか、研究を続けてきた人々。多くの佐渡島民が朱鷺を考え、私たち人間の生活を省みてきた。それは、なにも佐渡島民だけでなく、新潟県民も同じだった。

 朱鷺は、佐渡のシンボルだけでなく、広く新潟県のシンボルでもある。年々、佐渡トキ保護センターで誕生する朱鷺が増えていき、新潟県の人々の心に、もしかすると、上越国境の雪と戦い続けた特急〔とき〕のイメージが重なったのかもしれない。新潟を代表する鳥「朱鷺」と「特急〔とき〕」。その一方で、日本の鉄路上には〔とき〕がいない現実があった。

 一部の人々には「絶滅しようとしている朱鷺では、新幹線の列車愛称名称にふさわしくない」という意見もあったそうだ。確かに、それは決して縁起がいいものではない。しかし、再生している朱鷺は新しい時代の新潟のシンボル、環境破壊をきたさない循環型社会のシンボルという声の方が強かった。

 何より、1962年(昭和37年)から、1982年(昭和57年)の上越新幹線開業を経て、1997年(平成9年)までの35年間、東京と新潟を結び続けてきた特急〔とき〕、新幹線〔とき〕の記憶が多くの人々の脳裏に焼きついていた。新潟県が2001年(平成13年)末に行った県民アンケートによれば、回答者である新潟県民の64.6%が「〔とき〕へ変更したほうがよい」と回答していた。そこには、単なる「朱鷺ブーム」ではない、新潟県のシンボル朱鷺への誇りがあった。

 その一方で、上越新幹線〔あさひ〕が長野新幹線〔あさま〕と1字違いで誤乗が後を絶たないという現実的な問題も存在していた。

「9・11テロ」と新幹線

 上越新幹線をはじめとする新幹線ネットワークは、ある事件が起きた日から一気に物々しい警備対象となった。2001年(平成13年)9月11日8時50分(現地)、アメリカ・ニューヨークの世界貿易センタービル(WTC)北棟にボストン発ロサンゼルス行のアメリカン航空11便が突っ込んだ。18分後、もう一方の南棟にもボストン発ロサンゼルス行のユナイテッド航空175便が突っ込んだ。110階建ての世界貿易センタービルは2つの棟とも倒壊。9時30分にはワシントン国防総省にワシントン発ロサンゼルス行のアメリカン航空77便が墜落。ニューヨーク発サンフランシスコ行のユナイテッド航空93便もピッツバーグ郊外に墜落。日本人24名を含む2,751名が卑劣なテロ行為の犠牲となった、いわゆる航空機4機をハイジャックしたアメリカ同時多発テロ事件。日本の新幹線は、炭疽菌たんそきんなどによるバイオテロなどテロ攻撃に警戒が一気に強化された。

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