| History of Jôetsu Shinkansen |
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念願の「東京」乗り入れ
>>>[ときの歴史]
1991年(平成3年)6月20日、上越・東北新幹線の東京─上野間が開業し、上越新幹線は念願ともいえる東京乗り入れを果たした。東京─新潟間は、最速の〔あさひ〕で100分(1時間40分)で結ばれ、上野駅を通過する〔あさひ〕(スーパーあさひ)も登場し、“東京・北の玄関口”が上野から東京に移動したことを象徴した。
東京─上野間も、上野─大宮間と同様に都心ならではの難しい建設工事だった。さらに、「東京縦貫線」ともいうべき今後の鉄道整備計画も考慮しなければならなかった。つまり、神田駅周辺の用地買収が難しく、東京─上野間の山手線・京浜東北線に並行する回送線を旅客線に転用し、宇都宮線・高崎線と東海道線を直通運転する計画も新幹線建設計画にも影響したのであった。
結局、神田駅付近は、新幹線の上に在来線を建設できるように、高架橋などを建設した。つまり、将来的には、秋葉原付近で地上に出てくる新幹線の真上に在来線(東京縦貫線)が重なり、神田駅付近は下部:新幹線+上部:在来線で進み、東京駅北方で在来線は東海道線側に降りることになっている。
また、東京駅乗り入れ自体も難しい工事だった。上野駅が開設された過程でも触れたように、東京駅には上越・東北新幹線用ホームの用地は1面2線分しかなく、1面2線では、全ての上越・東北新幹線列車を東京駅に乗り入れるのが難しいとされた。それでも折り返し作業の時間を徹底的に短縮化することで、9割以上の列車を東京発着とすることができたが、臨時列車は上野発着とされ、一時的に上野駅に回送列車を停車させ、東京駅の1面2線のホームがダイヤ設定を難しいものにした。さらに、東京駅ホーム上での混雑を平準化させるため、上越新幹線〔あさひ〕〔とき〕と東北新幹線〔やまびこ〕〔あおば〕の自由席号車を上越新幹線が5〜8号車に移動させた(東北新幹線は1〜4号車)。
日本最速を誇った〔あさひ〕
上越・東北新幹線の東京乗り入れよりも前の1990年(平成2年)3月10日のダイヤ改正から、下りの「スーパーあさひ」(長岡のみ停車)の〔あさひ1号〕〔あさひ3号〕に限定して、最高275km/h運転が始まった。これは、新型車輌を導入するでもなく、地上装置を更新するでもなく、専用の200系電車12輌編成の一部を改造して実現した。上野を発ち大宮まで110km/hで運転された「スーパーあさひ」は、高崎駅付近までは240km/hで運転し、中山トンネルの160km/h制限区間を過ぎると、一気に加速し、大清水トンネル内の最高点を過ぎても加速を続け、下り坂を一気に下ることで275km/hを達成した。新幹線のスピードアップはいわば、騒音問題の解消に左右される面があるが、大清水トンネルから長岡にかけてはほとんどがトンネルで、新幹線の騒音が外部に漏れることがなく、275km/h運転が可能となった。
1964年(昭和39年)に開業した東海道新幹線は長年最高210km/hで運転され、国鉄の分割・民営化直前に220km/hに向上した。一方、上越・東北新幹線では、東北新幹線が1985年(昭和60年)の上野開業時に240km/hにスピードアップし、上越新幹線でも1988年(昭和63年)3月のダイヤ改正で240km/h運転が始まった。
さらに、JR東日本は新型車輌を導入しないスピードアップを検討した。200系電車12輌編成の3編成の歯車比を変え、パンタグラフを減らし、運転台のATCに読替装置を取りつけた。これで275km/h運転が可能になり、当時日本最速の列車となった。しかし、後に登場する「500系のぞみ」のように新型の専用車輌を導入したわけではなく、従来の200系電車と外見は変化がなかったことで、一般客への「日本最速」のインパクトは決して大きなものではなかった。
「日本最速275km/h」のタイトルは、山陽新幹線で300km/h運転を始めた「500系のぞみ」が登場する1997年(平成9年)まで保持していた。
右上の推移図は各新幹線の営業列車における最高速度の推移を示したものだが、国鉄の分割・民営化後に一気に、新幹線のスピードアップ競争が始まったことも示している。国鉄時代の蓄積があったからこそだが、東日本・東海・西日本のJR3社がお互いをライバル視し、スピードアップへの研究と投資の成果ともいえる。新幹線のスピードアップにも国鉄の分割・民営化が反映されている面があるといえるだろう。
1991年(平成3年)3月のダイヤ改正から、東北新幹線で2階建て車輌連結の16輌編成(専門的にはH編成と呼ばれた)が登場したが、上越新幹線では運転されることはなかった。
「Max」の登場・長野行新幹線分岐工事
年々、新幹線による通勤輸送が増え、朝夕の時間帯にはせっかく高価なフレックス定期券を持っていても座れない事態も発生しはじめた。また、列車を増発させようにも東京─大宮間の運転本数も限界に近づいていた。運転本数を増やすにはとてつもなく資金が必要な大宮以南の複々線化が考えられたが、とても現実的ではなかった。運転本数を増やさず、「座れる席を増やす=車輌を2階建てにする」という発想が生まれた。
そこで、1994年(平成6年)7月15日に日本初の全車2階建て新幹線用車両E1系電車「Max」が運転を開始した。Multi Amenity Expressから「Max」と呼ばれるE1系電車は、自由席車の2階部分では3列+3列配置のシートも採用し(F席も初登場)、1編成あたりの定員は200系電車12両の約1.4倍を確保し、大量輸送を実現した。E1系電車は、JR東日本の新幹線用車輌としては、初めてVVVFインバータ制御を採用したため、小型で出力の高いモーターが使え、2階建ての大きな車体でも最高240km/hという高性能が出せる。
上越新幹線では200系電車以来2系列目となったE1系電車は、東京─高崎間の一部の〔とき〕をはじめ、朝夕の時間帯の間合いを活用して〔あさひ〕の一部も置き換えられ、〔あさひ〕〔とき〕に、弟分の〔Maxあさひ〕〔Maxとき〕がデビューした。当然のことながら眺望のよさから2階席に人気が集まったものの、上越新幹線では高崎─長岡間のほとんどがトンネルで、せっかくの眺望の良さもトンネルの壁に阻まれてしまった。その後、E1系電車が増備され、「スーパーあさひ」に使用されたり、スキーシーズンのガーラ湯沢行に使用されたりした。
一方、1995年(平成7年)10月22日、25日、29日の3日間、上越新幹線で初めて大規模な区間運休が実施された。高崎─越後湯沢間が初発から午前中を中心に全面運休し、在来線に振替輸送された。これは、高崎で分岐する北陸新幹線(長野行新幹線)の下り線を高崎から3.3km上毛高原寄り地点で分岐し、そこまで上越新幹線と線路を共用するために、分岐器を取り付けるためのもので、東京─高崎間、越後湯沢─新潟間は折返し運転となった。
上越線での振替輸送には、特急〔新特急谷川〕1往復が水上─越後湯沢間で延長運転したほか、グリーン車を含め全車自由席の臨時特急〔新幹線リレー号〕が運転された。〔新幹線リレー号〕には、JR東日本の各エリアから応援の189系電車、489系電車、583系電車が集合し、上越線はまさに「上越新幹線開業前の特急街道」のにぎわいを彷彿とさせる光景となった。
1995年(平成7年)12月1日のダイヤ改正は、東北新幹線に「近距離新幹線〔なすの〕」がデビューするなど、JR東日本の新幹線網が再編された。上越新幹線でも高崎以北の〔とき〕が廃止されたり、〔あさひ〕に組み替えられたことで、新潟県の鳥・朱鷺から命名されたにも関わらず、新潟県内で運転される〔とき〕よりも、越後湯沢・高崎以南で運転される〔とき〕の運転本数が上回るほどの事態となり、ある種の矛盾を抱えてしまうこととなった。
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