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History of Jôetsu Shinkansen
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さらば国鉄・JR発足

>>>[ときの歴史]

 1987年(昭和62年)4月1日午前0時。公共企業体「日本国有鉄道(国鉄)」は「JRグループ」に分割・民営化され、上越新幹線は、東日本旅客鉄道(JR東日本)の営業下におかれた。国鉄が分割・民営化された要因には、モータリゼーションに対応できなかった点、不正常な労使関係が続いた点、公共企業体(公社)の親方日の丸体質などが挙げられるが、2兆7,000億円もかかった上越・東北新幹線の建設費負担も要因のひとつといわれている。

 国鉄からJRに変わっても上越新幹線は休むことなく走り続けた。上越新幹線は、正確には新幹線鉄道保有機構法に基づき、新幹線鉄道保有機構から新幹線の施設を有償で借り受けて、JR東日本が事業を営業していた。なお、当時の日本国有鉄道清算事業団が保有していたJR東日本の株式を売却・上場するため、1991年(平成3年)10月にJR東日本に有償譲渡された。

 上越・東北新幹線の上野開業の頃から東北新幹線での混雑が目立ち、その一方で〔とき〕の利用客が〔あさひ〕にシフトしはじめ、開業以来〔あさひ〕とともに12両編成で運転されていた〔とき〕は、1987年4月から10輌編成に減車された。さらにこの年の秋には8両編成にさらに減車され、〔とき〕の低迷ぶりが列車の輌数にも表れた。これも国鉄の分割・民営化の効果といわれた。それは、国鉄時代だったら、〔とき〕の編成を減車させず、東北新幹線用に車輌を新造していたかもしれないからだ。より効率的な経営が求められる民営化によって、空席が目立つ〔とき〕の編成の一部を東北新幹線に転用するというムダを省くことができたからだった。もちろん、朝や夜の混雑する時間帯の〔とき〕は12輌編成で運転される列車もあった。

 1988年(昭和63年)3月13日、青函トンネル・津軽海峡線の開業、青函連絡船廃止に伴うダイヤ改正は、4月に控えた瀬戸大橋の開通・瀬戸大橋線の開業とあわせて「レールで結ぶ一本列島」ダイヤ改正となった。上越新幹線では、東北新幹線で先に実施されていた240km/h運転が開始され、長岡のみに停車する、いわゆる「スーパーあさひ」が登場し、特急〔かがやき〕とタッグを組んで、JR東海の東海道新幹線の米原回りに対抗する、新たな東京─北陸間の鉄道ルートを開拓した。一方の〔とき〕は上野−越後湯沢間などの区間運転列車が増発され、47本に運転本数は増えた。

 一方、上越・東北新幹線沿線から、「東京乗り入れ」の要望が強かった。最初の計画では、東京側の始発は「東京駅」(サブ・ターミナルに新宿駅)だった。そのことに加え、地下4階の上野駅では乗り換えに不便であり、地上駅の東京駅までの乗り入れ要望が強くなった。また、分割・民営化後のJR東日本の決算が予想以上に好調な結果となり、1989年(平成元年)、東京─上野間の着工が決まった。政治主導で着工が決められる傾向が強い新幹線が、事業を展開する鉄道会社自らが決断した上での着工は、おそらく初めてのことだった。

 上越新幹線は、東京─新潟間の都市間輸送、首都圏での通勤輸送がメインだったが、日本経済が好景気だった1987年(昭和62年)〜1989年(平成元年)頃から、「新幹線で日帰りスキー」が定着し、上越新幹線には新たな輸送、スキー客輸送が加わった。8両編成の〔とき〕の混雑が目立つようになり、1989年(平成元年)1月から2年間、スキーシーズンだけ東北新幹線の〔あおば〕12両編成と入れ替えて運転され、輸送需要に対応した。1990年(平成2年)12月20日、JR東日本が開発した「GALA湯沢スキー場」のオープンと同時に、上越新幹線の支線(法規上は在来線の上越線の扱い)・越後湯沢─ガーラ湯沢間が開業した。このガーラ湯沢駅はスキーシーズンのみの営業で、GALA湯沢スキー場のスキーセンターに併設された。上野─ガーラ湯沢間には、上野─越後湯沢間の〔とき〕が延長運転されたほか、途中大宮にのみ停車する臨時の〔あさひ〕、各駅停車の〔とき〕が運転され、越後湯沢─ガーラ湯沢間には〔シャトル・ガーラ〕が運転された。>>>[ときの歴史]-[あさひの陰で…]

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