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| History of Jôetsu Shinkansen |
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難渋を極めた建設工事
上越新幹線の建設工事は、決して順調に進んだわけではなかった。着工当初の1976年度(昭和51年度)開業の予定は既に崩れ、オイルショックと総需要抑制策、スタグフレーションなどからの建設費高騰は、悪化していく国鉄の累積赤字という社会問題で苦渋を極めたが、大清水トンネルの火災事故、中山トンネルの大出水事故と、現場自体の工事が難渋を極め、これらと闘った鉄道屋≠スちの記録は、残念ながら決して世に多く出されていない。
1978年(昭和53年)7月20日。群馬県榛東村のある集落で、突然、地面が陥没する事故が起きた。まるで、榛名山が爆発したかのような轟音だったという。陥没事故の原因は、事故現場の地下で掘り進められていた榛名トンネルの工事によるものだった。幸い、地上の陥没現場でも地下の建設現場でも、けが人も陥没による家屋の倒壊はなかったが、周辺の住民が避難し、結局、移転を余儀なくされた家屋があった。
当時、世界最長を誇った大清水トンネルの掘削には、「山ハネ」という難題が突きつけられた。山ハネとは、掘削を進めた坑内で岩盤が、大きいもので畳3枚ほどもの大きさで突然飛び散る現象で、土砂の運搬車を破損したり、作業員が負傷することさえあった。防護網を張ったり、対策を講じても山ハネがひどく、一時工事を中止することさえあった。それでも、水を吹き付け続け露出した岩盤を濡らすことで、山ハネの難題を解決した。
大清水トンネル爆発事故
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| 山岳稜線は推定。各工区には斜坑が掘られていた。 |
さらに、1979年(昭和54年)3月20日には、その大清水トンネルで爆発火災事故が発生した。既に掘削が終わり、貫通していた大清水トンネルの各工区では、コンクリートの打ち込みなどの作業に入り、掘削機械の撤去作業が進められていた。保登野沢工区で、削岩機の土台を解体している作業中に、何らかの火花が引火し、トンネル坑内に煙が充満し始めた。11名の作業員は懸命に消火を試みたが、トンネルが既に貫通していたことで新鮮な空気が流れ込み、消火作業は全く手がつけられず、危険と判断し逃げたが、この現場から3名と250mほど上毛高原寄りでコンクリート打ちの作業していた11名が逃げ遅れた。トンネルが貫通していたことが逆に災いし、さらに斜坑の排煙機能もあまり機能せず、いわば「燻燃」状態が続き、自然鎮火を待つ以外になかった。
逃げ遅れた11名の救出を勇敢にも挑もうと斜坑から入坑した2名も、逆に猛煙に倒れ、鎮火後遺体で発見された。この事故で16名の尊い命が犠牲となった。
迂回を余儀なくされた中山トンネル
何より、上越新幹線の開業予定さえ遅らせてしまった難工事が「中山トンネル」だった。鉄道建設公団のトンネル技師に「青函(トンネル)より難しい」と言わしめた中山トンネル。死火山の子持山、小野子山を貫くのだが、簡単に言えば「山全体が水がめ」のように、火山噴出物が堆積した地層が多量の水を含んでいた。掘れば掘るだけ切羽から水が噴出し、対策を求められた。
出水対策を講じても出水事故を防ぐことはできず、大きな出水事故は3回を数えた。最初の事故は1974年(昭和49年)9月に小野上北工区で発生し、斜坑の大半が水没した。さらに、1979年(昭和54年)3月には四方木工区でも出水事故が発生し、坑道が水没した。事故発生当時、坑内に100名以上の作業員が取り残され、出水による停電でエレベーターによる脱出ができない危機状況にあったが、辛うじて助かった。この事故では復旧まで10ヶ月以上も要し、一部区間でルートを変更した。
1980年(昭和55年)3月8日には、3回目の異常出水事故が発生した。前回の事故から復旧し工事が再開されてわずか2ヶ月も経っていなかった。高山工区で発生した異常出水は毎分40トンだったが、翌日には2次崩壊が発生し毎分110トンに増水し、高山工区だけでなく四方木工区、あわせて約3,300mも水没した。当時は既に上越・東北新幹線の1982年(昭和57年)春の「同時開業」が発表されていたが、この異常出水事故で同時開業は断念され、東北新幹線だけ1982年(昭和57年)春に開業させることとなった。さらに、当初計画し掘削を進めていた高山・四方木両工区で、出水箇所を避けるようにルートが変更された。このルート変更で、曲線半径1,500mの急カーブができ、完成した現在でもその区間では最高160km/hに抑えられ、高崎駅を通過する列車などでは、この区間を徐行するのがよくわかる。
新幹線の開業を半年も遅らせ、開業後も徐行を強いる中山トンネルは、上越新幹線の建設がいかに難しいものだったのか、関係者が苦汁を喫した日々に耐え続けてきたのか、それを象徴するようなトンネルであると語り継がれていくだろう。
これらの事故だけでなく、新幹線用地の買収そのものが感情のもつれからうまく進まなかったケースや、地区が団結して新幹線建設を反対したケースなど、自然との闘いの他に、社会的な問題もはらんでいながらの建設工事だったことを見過ごせない。
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新幹線建設反対運動と埼京線〜国鉄vs埼玉県南3市の攻防〜
1971年(昭和46年)に上越・東北新幹線の整備計画が策定された頃、上越・東北新幹線は大宮で合流し、東京都内へ乗り入れる計画だった。この時は、東北新幹線は東京駅、上越新幹線は新宿地下駅を東京側のターミナルとする計画だったが、東京・新宿─大宮間に位置する当時の与野市、浦和市、戸田市で、猛烈な反対運動がわき起こった。
与野・浦和・戸田の県南3市側は、「新幹線を通しても停車駅はなく、走行による騒音に悩まされ続ける。それなら新幹線はゴメンだ」と、大宮以南の新幹線建設を地下線で建設してほしいと国鉄に要望したが、国鉄側は建設費や地盤軟弱の問題からこれを拒否。度重なる協議でも議論は平行線をたどった。国鉄側は、新幹線に並行するように通勤新線を建設することを提示した。これで、県南3市側には新幹線騒音のマイナスだけでなく、通勤新線というプラスがついた。県南3市側は、1980年(昭和55年)9月に、新幹線と通勤新線に沿って将来、道路、公園等の都市施設の設定を計画しているので、工事用道路用地の外側に幅20mの用地を国鉄が本線用地と併せて取得してほしいことと、大宮以南では新幹線の最高速度を110km/hに抑えてほしいと提案し、国鉄側はこれを了承した。
これで、大宮以南も順次着工のメドがついたが、用地買収の遅れは火を見るより明らかで、大宮以北の暫定開業という形で、上越・東北新幹線は開業することとなった。文中の通勤新線とは現在の埼京線であり、埼京線沿線のベッドタウンとしての発展を顧みると、建設費の高騰をのまざるを得なかった国鉄側より、埼京線を得た県南3市に分があったということだろうか。
このような新幹線建設の反対運動は、埼玉県南3市だけでなく、東京都北区や埼玉県伊奈町でも展開され、埼玉県伊奈町では新幹線建設の見返りに、新交通「埼玉新都市交通ニューシャトル」が開業したいきさつもあった。
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加速する開業へ向けた動き
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異常出水事故で工事が中断していた中山トンネルの工事も復旧したが、東北新幹線との同時開業は見送られ、1982年(昭和57年)秋の開業をメドとされた。
一方、既に完成していた長岡─新潟間を中心に、雪害に備えるための試験や実際に200系電車を用いた雪上走行試験が、1980年(昭和55年)から繰り返し行われた。新幹線にとって最高3m、4mという豪雪は初めての経験であり、開業前に十分に試験データを取っておく必要があった。
まだ建設工事真っ只中の1981年(昭和56年)10月29日には、一般公募された上越・東北新幹線の列車名愛称が〔あさひ〕、〔とき〕、〔やまびこ〕、〔あおば〕と決定された。>>>[アーカイブス]-[上越・東北新幹線列車名愛称公募の結果] いよいよ開業の年、1982年(昭和57年)を迎えた。
難工事を極めた中山トンネルも1982年(昭和57年)3月には完成し、4月20日には埼玉県伊奈町で、最後のレールを路盤に締め付ける締結式が執りおこなわれ、大宮─新潟間のレールがやっと結ばれた。それに先立つ2月13日には、それまで「仮称」だった上毛高原、燕三条の両駅が正式駅名に決定し、5月1日には新潟−仙台間(米坂線・山形経由)の急行〔あさひ〕が〔べにばな〕に改称された。まもなく東北新幹線が開業するという6月になって、高崎以南でも200系電車を用いた試験運転が始まり、いよいよ「11月15日開業」へのカウントダウンが始まった。
開業に先立つ10月には、新幹線建設に殉じた95名の御霊を慰める慰霊碑が、新潟県湯沢町の大清水トンネル湯沢口城平公園に建立され、慰霊祭がしめやかに執りおこなわれた。碑文は次のように掘られ、殉職者を称えている。
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上越新幹線工事は 上越の産業文化の振興をはかるため 国の一大事業として昭和四十六年十一月に工を起し ここにその完成をみた
私どもは その間にあつて尊い生命を捧げられ 偉業達成の礎となられたかたがたのことを忘れることができない
ここにそれらのかたがたの霊を慰めるため 大清水トンネル湯沢口を鎮魂の地と定め この碑を建立する
御霊よ
ねがわくは 永遠に安らかに鎮まりたまわらんことを
昭和五十七年十月
上越新幹線 建設工事関係者一同
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