| History of "TOKI" |
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新幹線〔とき〕東京へ
>>>[上越新幹線]
待望の東京開業
1991年(平成3年)6月20日。開業からまもなく9年を迎えようとした上越新幹線が、東京乗り入れ開業を果たした。当初は3月に開業が予定されていたものの、御徒町駅地下でのトンネル工事による道路陥没事故などから開業は遅れた。これで、直接線路はつながらなかったものの、“西”の東海道・山陽新幹線と“東”の上越・東北新幹線が東京駅で出会うことができた。都心部での建設工事は建設費の高騰を招き、東京─上野間3.57kmに総工費1,300億円が投じられた。そして、東京までの特急料金は上野までの特急料金に200円が加算され、料金制度上は余裕のある上野駅への誘因を図った。
〔とき〕という名の列車が東京駅に乗り入れたのはこの上越新幹線東京開業時が初めてではなく、1967年(昭和42年)〜1973年(昭和48年)まで特急〔とき〕が乗り入れていた。>>>[ときの歴史]-[特急〔とき〕全盛期へ]
上越・東北新幹線の東京駅への乗り入れ計画で、最大の難関は東京駅の上越・東北新幹線用のホームをどう確保するかだった。東海道本線のホームを転用して、1面2線のホーム(12番線・13番線)を確保したものの、毎日運転の定期列車でさえ、〔とき455号〕・〔とき404号〕が上野始発・終着となり、臨時列車も上野発着とされた。さらに、ホーム上での混雑を平準化するため、上越新幹線用の200系電車では自由席車輌を5〜8号車(東北新幹線では1〜4号車)に変更し、また最繁忙期にはホーム上での乗車待ちをホーム下のコンコースに誘導し、東京乗り入れのための苦肉の策が講じられた。
一方、東京開業により、「スーパーあさひ」を中心に上野を通過する〔あさひ〕が登場し、北のターミナル・上野駅の地盤低下≠ェ懸念され、話題となった。懸念された通り、地下4階の上野駅よりも乗り換えしやすい東京駅の方へ利用客の流動が続き、上野駅の地下ホームは少しずつ淋しくなっていった。
痩せ細る〔とき〕
1993年(平成5年)12月1日のダイヤ改正では、東京─新潟間の〔とき〕が〔あさひ〕に振り返られ、東京─高崎・越後湯沢間の〔とき〕は増発された。東京─新潟県内各駅間の利用客の〔あさひ〕嗜好がさらに強くなったことを示していた。〔とき〕は、上越新幹線のメインとなる新潟県内や北陸、庄内と東京を結ぶよりも、「通勤新幹線」や短距離利用の乗客を静かに迎えていた。
「Max」登場
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年々、新幹線による通勤輸送が増え、朝夕の時間帯にはせっかく高価なフレックス定期券を持っていても座れない事態も発生しはじめた。また、列車を増発させようにも東京─大宮間の運転本数も限界に近づいていた。
そこで、1994年(平成6年)7月15日に日本初の全車2階建て新幹線用車両E1系電車「Max」が運転を開始した。Multi Amenity Expressから「Max」と呼ばれるE1系電車は、自由席車の2階部分では3列+3列配置のシートも採用し(F席も初登場)、1編成あたりの定員は200系電車12両の約1.4倍を確保し、大量輸送を実現した。E1系電車は、JR東日本の新幹線用車輌としては、初めてVVVFインバータ制御を採用したため、小型で出力の高いモーターが使え、2階建ての大きな車体でも最高240km/hという高性能が出せる。
上越新幹線では200系電車以来2系列目となったE1系電車は、東京─高崎間の一部の〔とき〕をはじめ、朝夕の時間帯の間合いを活用して〔あさひ〕の一部も置き換えられ、〔あさひ〕・〔とき〕に、弟分の〔Maxあさひ〕・〔Maxとき〕がデビューした。当然のことながら眺望のよさから2階席に人気が集まったものの、上越新幹線では高崎─長岡間のほとんどがトンネルで、せっかくの眺望の良さもトンネルの壁に阻まれてしまった。その後、E1系電車が増備され、「スーパーあさひ」に使用されたり、スキーシーズンのガーラ湯沢行に使用されたりした。
上越線・上越国境のにぎわい、再び
時は遡るが、1991年(平成3年)に国際オリンピック委員会(IOC)総会で、1998年(平成10年)の第18回冬季オリンピック大会が長野で開催されることが決定した。既に北陸新幹線の工事は着工されていたが、オリンピック開催に合わせるように、北陸新幹線の工事が進められた。北陸新幹線は、高崎で上越新幹線から分岐し、軽井沢、長野、上越、富山、金沢を経て大阪市に至る新幹線で、「整備新幹線」のひとつであった。
高崎での分岐は、大宮駅のように上越新幹線に並行して北陸新幹線の線路を建設する計画だったが、下り線については、用地買収を抑え総事業費を抑制する必要から、高崎駅から3.3km上毛高原に寄った分岐点まで上越新幹線と線路を共用することとなった。分岐点のポイントには、JR東日本、鉄道建設公団、鉄道総合研究所が共同開発し、分岐側(北陸新幹線側)でも160km/hで通過できる分岐器「38番分岐器」が開発、導入された。
この分岐ポイント設置工事のため、1995年(平成7年)10月22日、25日、29日の3日間、上越新幹線では初めて大規模な区間運休が実施された。高崎駅基準で初発から13時(25日のみ11時)まで高崎─越後湯沢間を全面運休とし、この区間は、在来線による振替輸送が実施され、東京─高崎間、越後湯沢─新潟間は折返し運転となった。
上越線での振替輸送には、特急〔新特急谷川〕1往復が水上─越後湯沢間で延長運転したほか、グリーン車を含め全車自由席の臨時特急〔新幹線リレー号〕が運転された。〔新幹線リレー号〕には、JR東日本の各エリアから応援の189系電車、489系電車、583系電車が集合し、上越線はまさに「上越新幹線開業前の特急街道」のにぎわいを彷彿とさせる光景となった。
多種多彩な新幹線の列車愛称名称
1995年(平成7年)1月17日に発生した阪神・淡路大震災は、山陽新幹線の高架橋が崩落し、約3ヶ月間も不通となった。これを受けて、上越新幹線でも高架橋の耐震度を上げる工事が実施された。
その年の12月1日のダイヤ改正では、高崎・越後湯沢以北の〔とき〕が廃止され、新潟県の鳥・朱鷺から命名された〔とき〕なのに、その新潟県まで行かない〔とき〕の運転本数の方が多くなった。東北新幹線でも同様で仙台の青葉城から命名された〔あおば〕が仙台まで行かない列車が多くなり、東京─那須塩原間で運転されていた〔あおば〕は、近距離新幹線≠ニして〔なすの〕と改称された。もちろん、E1系電車「Max」で運転される列車は〔Maxなすの〕となった。
〔なすの〕の登場を見るまでもなく、上越新幹線では、東京─新潟県内各駅間では〔あさひ〕への利用客の流動がさらに加速し、〔とき〕はどちらかといえば、東京と高崎までの各駅間の比較的近距離の輸送での活躍が目立つようになった。
1996年(平成8年)、バブル経済の崩壊から続く日本経済の低迷は尾を引き、〔とき〕にもやや暗い影を落とした。それでも〔とき〕は、東京─高崎間などの通勤輸送の需要や新潟県内の近距離輸送の需要に応えていた。一方、国鉄時代に計画され建設途中で中止、第三セクター鉄道・北越急行が引き継いだ北越北線(ほくほく線)は、1997年(平成9年)3月に開業する見通しがたった。さらに、長野オリンピック開催までに開業を予定していた北陸新幹線・高崎─長野間も、1997年(平成9年)中の開業が決まった。まさに、1997年(平成9年)は、上越新幹線にとってターニングポイントとなる年だった。
1997年(平成9年)3月22日に、北越急行ほくほく線の開業によるダイヤ改正が実施された。ほくほく線の開業により、上越新幹線経由の北陸方面への乗換駅が長岡から越後湯沢になり、上越新幹線・北陸ルートがほくほく線によってショートカットできるようになった。〔あさひ〕に接続していた特急〔かがやき〕は、越後湯沢から接続する特急〔はくたか〕にその任をバトンタッチした。これにより、それまで長岡のみに停車していた「スーパーあさひ」が越後湯沢に停車したり、越後湯沢を通過していた〔あさひ〕の停車本数を増やし、越後湯沢停車を重視したダイヤとなった。また、ほくほく線開業と同時に、山形新幹線に次ぐ第二の“ミニ新幹線”秋田新幹線が開業し、東京─大宮間には4新幹線12列車が集中することとなった。東京駅では東海道・山陽新幹線を合わせて、新幹線が5新幹線15列車を数え、「多種多彩」というより“複雑”なイメージを持たれるようになった。
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| 上越 |
あさひ |
Maxあさひ |
| とき |
Maxとき |
| 東北 |
やまびこ |
Maxやまびこ |
| あおば |
Maxあおば |
| なすの |
Maxなすの |
| 山形 |
つばさ |
| 秋田 |
こまち |
東海道
山陽 |
のぞみ |
| ひかり |
| こだま |
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| 〈1997年(平成9年)3月22日〜9月30日の新幹線ネットワーク〉 |
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