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History of "TOKI"
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新幹線〔とき〕上野へ

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〔とき〕、850日ぶりに上野へ

〔とき〕 上野 1982年(昭和57年)冬、上越新幹線にとって初めての“冬”を迎えた。「雪に強い新幹線」の本領を発揮し、上越線など在来線が積雪でダイヤが乱れても、上越新幹線は定時運行を誇った。雪に悩まされ続けた新潟県民にとって、グリーンラインの新幹線は頼もしく見えることさえあった。

 上越・東北新幹線「大宮暫定開業」後も、東京─大宮間の建設工事は進められた。新幹線建設に猛烈な反対運動を展開した埼玉県南3市や赤羽付近でも、用地買収が進んだ。ただ、新幹線の建設が進められたのではなく、新幹線に並行する通勤新線(埼京線)の建設、最高速度110km/h制限を国鉄から引き出した上での建設ゴーサインだった。つまり、埼京線は「新幹線建設における政治的取引の副産物」ともいえるだろう。

 1985年(昭和60年)3月14日。開業3年目を迎えた上越新幹線に「上野開業」という大きな転機がやってきた。正式な“名義上”は東北新幹線として、上野─大宮間(26.7km)が開業したが、上越新幹線も上野─大宮間で東北新幹線に乗り入れる形で上野開業を果たした。これで上越・東北新幹線が東京都下まで乗り入れ、大宮での〔新幹線リレー号〕への乗り換えも解消され、なかには本格開業≠ニの声もあった。

 これにより、上野駅に〔とき〕と名づけられた列車が850日ぶりに復活した。

 上野駅の新幹線ホームは地下4階につくられ、当時としては国内最長のエスカレーターが1階と結び、大連絡橋通路の完成とあわせて、上越・東北新幹線の開業で上野駅は様変わりした。けれども、“東京の北の玄関・上野駅”のステータスはそのままだった。

 上越新幹線は、上野開業と同時に行われたダイヤ改正で〔あさひ〕〔とき〕それぞれ17往復に増発され、上野−越後湯沢間などの区間運転列車も初めて設定された。

 上越・東北新幹線の上野開業の一方で、大宮暫定開業のために存続していた急行〔佐渡〕や〔よねやま〕、夜行急行〔天の川〕など、上越線を飾ってきた名列車たちが姿を消していった。
上越新幹線こぼればなし
 〜通過だった上野駅・永遠に乗り入れない新宿駅〜

 東京の北のターミナル、上野駅。

 東北本線・上越線・信越本線・常磐線と、東北・信越方面の主要在来線が集中するターミナルは、新幹線開業前、どこか雪国の風情が漂う駅だった。東北・上越新幹線が計画されたとき、北のターミナル・上野駅には新幹線駅のホームがなく、「上野の森」の地下を新幹線が通り過ぎる計画だった。つまり、東京の次は大宮だったわけである。この計画を知ったアメ横など、上野駅周辺の地元では、当然の如く通過反対の大騒ぎとなった。この計画反対に意外な援軍が登場した。それは東京都。京成電鉄が地下駅の京成上野駅を建設したときに、不忍池で様々な変化が生じてしまったからというのが東京都の理由だった。さらに、当の国鉄も、上野通過計画を見直さなければならなくなった。その理由は、東京駅のホーム容量の不足が明らかになったからである。運転本数を増やし続けた東海道・山陽新幹線が14番線〜19番線までの3面のホームを使用してしまい、東北・上越新幹線向けには1面しか用意できないことがわかったからである。

 結局、全てが丸く収まる′`で、上野駅に東北・上越新幹線のサブターミナルとして、上野駅の地下に新幹線ホームが建設されることになった。


 上越新幹線は東京−新潟間で開業した今も、「全線開業」していないという説がある。何も、新潟から北の話ではない。

 上越新幹線の東京側のターミナル駅は上野でも東京でもなく、新宿駅だったようなのである。大宮から延びてきた新幹線は、赤羽付近で上野・東京へ向かう線路と分離して、埼京線の上を高架で沿うように新宿まで乗り入れる計画だった。

 しかし、国鉄の累積赤字や建設費の高騰などで、新宿駅乗り入れは幻のものとなった。歴史に「if」は禁物だが、新宿乗り入れが実現していたとしたら、「新宿発仙台行」や「新潟発新宿行」という新幹線があったかもしれない……。

 1986年(昭和61年)2月から、新幹線定期券「フレックス」が開始されたことなどから、高崎、熊谷から通勤に新幹線を利用する客が増え始めた。この頃から「新幹線通勤」という言葉が定着し、新幹線輸送の大きな柱となりはじめた。さらに、のちに新幹線定期券に関わる税制上の優遇措置もとられ、「新幹線通勤」は一気に定着の道へと進んでいった。

 上野開業した頃から、上野─新潟県内各駅間の利用が速達型の〔あさひ〕に偏り、上野─新潟間の〔とき〕に空席が目立ちはじめていた。

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