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History of "TOKI"
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上越新幹線開業

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日本海へグリーンライン

新幹線は「ブルーライン」じゃないの?!

 1982年の東北・上越新幹線開業前、東北・上越新幹線で使用される「200系」と呼ばれる新幹線電車が試験運転を始めると、沿線から意外な反応が出てきた。

 それは「新幹線が青くない!」というものだった。東海道・山陽新幹線の0系電車は青いラインを帯びていて、「わが県、わが町にも『ひかり』を!」と青いラインの新幹線のイラストを描いた看板が、東北・上越新幹線の沿線の町々に掲げられていた。それが、いざ「わが新幹線登場」となると、青いラインではない、緑のラインを帯びた新幹線が登場した。「新幹線は青いラインを帯びたもの」と半ば固定概念の如く思っていた沿線の人々は困惑してしまった。

 そんな声も開業すれば半ば歓迎ムードにかき消され、それ以後「西(東海道・山陽)の青東(東北・上越)の緑」が定着し、さすがに変更されることはなかった。

 時代は流れ、2階建て新幹線E1系電車・E4系電車が登場し、200系電車に替わる新標準型のE2系電車も登場、さらに200系電車がリニューアルしたことで「東の緑」は急速にその姿を消そうとしている。東海道・山陽新幹線は500系電車以外はブルーラインの伝統を守り続けている。西の青東の緑という図式は崩れつつある。

(画像提供:虎のフォトアルバム

 1982年(昭和57年)11月15日(月曜日)。「日本海へグリーンライン」のキャッチフレーズの下、上越新幹線・大宮─新潟間(269.6km)が開業した。東海道新幹線の開業から18年経って、昔は裏日本≠ニ半ば蔑称された日本海側にも新幹線が到達した。

 東京─大宮間は、用地買収が難航し、新幹線通過による騒音問題の解消、通勤新線の併設問題などが山積し、上越新幹線は大宮までの暫定的な開業となり、上野─大宮間は在来線の〔新幹線リレー号〕が文字通りリレー≠キることとなった。

 大宮6時35分発の〔とき301号〕、新潟6時45分発の〔あさひ190号〕が上り下りそれぞれの一番列車となり、盛大な出発式が挙行された。最高210km/hの高速鉄道の開業、つまり高速交通時代の到来に、鉄道ファンだけでなく多くの沿線の人たちが、平日にもかかわらず新幹線駅を訪れ、祝賀ムードに包まれた。新潟駅は400人以上が列をなして、新幹線改札口が開くのを待った。6時35分から新潟駅14番線ホームで開催された出発式には、高木文雄国鉄総裁、君健男新潟県知事らが出席したが、上越新幹線の建設・開業に絶大な影響力を発揮したといわれる田中角榮元首相の姿はなかった。14番線ホームは一般の入場者や関係者で身動きをとるのも難しく、テレビやカメラの放列が〔あさひ190号〕を被写体にしていた。発車1分前の6時44分、一番列車の発車ベルが響く中、高木総裁、君知事ら7名がテープカット、仲矢新潟鉄道管理局長ら5名がくす玉を割った。6時45分、大久保政賢新潟商工会議所会頭の音頭で万歳が響くなか、〔あさひ190号〕が静かに動き出し、拍手に送られてアイボリーホワイトと緑の帯が流れるように新潟駅を後にした。上空には一番列車を追跡するテレビ局のヘリが飛んでいた。

 その一方で、新幹線が止まらなくなった地域では、確かに急行〔佐渡〕などが存続されたが、新幹線による時間短縮よりも、東京や新潟に直通できなくなった影響の方が大きかったことも否めない事実でもあった。余談だが、東京・羽田と新潟を55分で結んだTDA(東亜国内航空→日本エアシステム→日本航空システム)の航空便は廃止された。

 上越新幹線開業当時、当然のことだが「新幹線通勤」や「新幹線スキー」が一般的ではなかった。それに加え、東海道・山陽新幹線のように東名阪、さらに太平洋ベルト地帯の大都市を抱えているでも、東北新幹線のように郡山、福島、仙台、盛岡、八戸、青森の各都市と東京との動脈を形成しているでもなかった。そのため、上越新幹線は利用客の低迷に苦しむと予想された。確かに、新潟の地方紙『新潟日報』のように歓迎ムードが濃かった一方で、全国紙は国鉄の財政赤字と絡め、「我田引鉄の新幹線」と今後を危惧する向きが強かった。

 累積赤字に苦しんでいた国鉄は、少しでも乗客増をはかろうと、駅に到着する前の放送にその地域にちなむ民謡などのオルゴールメロディーを流した。>>>[アーカイヴズ]-[旧車内放送チャイムの曲目] 1991年(平成3年)の東京開業の際にこのオルゴールメロディーは廃止され、現在では東北・山形・秋田新幹線、上越・長野新幹線でそれぞれ各駅共通のメロディーが使用されている。ちなみに、メロディーの後に流れる自動放送(「まもなく、終点、新潟です。……」)の声の主は、フジテレビのアナウンサー、鉄道ファンの堺正幸氏が開業以来担当している。

鉄道マン、雪との闘い 〜雪で止まるようでは値打ちはない。恥さらしにだけはしない〜

 1964年(昭和39年)に開業した東海道新幹線。誰も経験していない200km/h超の“超”高速鉄道に、予想しない事態が発生した。それは「関ヶ原の雪」が原因だった。超高速で通過するときに舞い上がった雪が床下などに着氷(車両の床下などに雪が付着して氷化する)し、暖かくなったところでその氷が落下して、線路のバラストをはね飛ばし、床下の機器や窓ガラスが破損するだけでなく、沿線の民家の窓まで壊すようなトラブルが発生した。これには、散水(スプリンクラー)設備を設置したり、名古屋駅や新大阪駅などで床下に温水を吹きつけ、付着した氷を溶かして対応しましたが、設備の能力以上の降積雪があれば、速度制限や運転抑止、運休など、「日本の大動脈」のダイヤが大きく乱れた。その後、関ヶ原付近の区間には温水のスプリンクラー設備も導入された。それでも、関ヶ原に雪が降れば、速度制限や名古屋駅などでの融雪・融氷作業によってダイヤが乱れることは、今でも年に数回はある。

 そのため、上越新幹線建設に際しては、東海道新幹線での苦い経験から、「雪に強い新幹線」にすべく徹底的に雪害対策が施された。新潟県に降り積もる雪は重たく湿っており、サラサラの雪とは違い走行車輌が雪をはね除けられない。逆に脱線のおそれさえある。そのうえ、豪雪時の積雪は3m〜4mになる。だから、必要以上ともいわれる雪害対策がとられた。その代表例がスプリンクラーといえるだろう。この設備は、トンネルからの湧水、河川から引いた水を貯水槽のボイラーで温め、その水をスプリンクラーで線路上に撒き、雪を溶かし、その解けた雪とともに貯水層に戻して、再び消雪に利用する水循環型のスプリンクラーで、消雪による地下水の汲み上げで地盤沈下を防ぐように開発された。この他に、ポイントが雪を噛んで不転轍しないようにポイントを加熱する設備、さらには念には念を入れるように除雪のロータリー・ラッセルモーターカーもある。また、200系電車側にも耐寒耐雪設備を十分に備えている。

走行安全設備 スプリンクラー設備 79.0km 上毛高原−新潟間でトンネル以外の区間
スノーシェッド・スノーシェルター 2.8km  
ポイント対策 電気温風式融雪装置 29組 熊谷、高崎、上毛高原、越後湯沢
床板加熱ヒーター装置 26組 浦佐、長岡、燕三条、新潟
局部散水装置 15組 上毛高原−越後湯沢
旅客駅設備 全覆い上屋 6駅 上毛高原−新潟間の各駅
全覆い上屋消雪設備 3駅 越後湯沢、浦佐、長岡
除雪機械 ロータリー・ラッセルモーターカー 5輌  

〔あさひ〕をサポートする名脇役へ

 在来線特急〔とき〕の名は、上越新幹線の「こだま」タイプの各駅停車型列車愛称名称に引き継がれ、東京と新潟を結ぶ重責を新時代も担った。一方、「ひかり」タイプの速達型は〔あさひ〕の名を授かった。〔とき〕と〔あさひ〕はいずれも東北・上越新幹線向けに耐寒・耐雪装備をフルに備え新製された200系電車12両編成(グリーン車:1両、ビュッフェ:半室、普通車:10両+半室)が使用され、〔とき〕は10往復、〔あさひ〕は11往復が大宮−新潟間に設定された。大宮での〔新幹線リレー号〕への乗り換えがあるとはいえ、上野−新潟間は在来線時代の4時間10分台から2時間30分台に大幅に短縮された。>>>[アーカイヴズ]-[WinDIA]-[上越新幹線開業時のダイヤ]

 速達型の〔あさひ〕がどうしても脚光を浴びる中、〔とき〕は地道に〔あさひ〕をサポートする名脇役として、来る日も来る日も東京と新潟を結ぶべく走り続けた。

「あさひ」ものがたり

 上越新幹線が開業する1年前の1981年(昭和56年)10月、上越新幹線の列車愛称名称は〔あさひ〕と〔とき〕に決まった。公募の結果では、「とき」がダントツの1位、「あさひ」は18位。新潟の日本海に太陽が沈むのは夕陽、朝日は太平洋から昇ってくるもの。だから、この名称決定のニュースを聞いた新潟の人たちは少し腑に落ちない気持ちになった人も少なくなかった。

 しかし、この〔あさひ〕という名は、新潟に全く縁がないわけではなかった。特急〔とき〕が誕生する2年前の1960年(昭和35年)11月1日、東北随一の大都市・仙台と日本海側最大の都市・新潟を仙山線・米坂線の山形経由で結ぶ準急列車がデビューした。その名が準急〔あさひ〕だった。この準急〔あさひ〕の名称は、米坂線沿線に聳える朝日連峰から命名されたといわれている。

 1966年(昭和41年)3月に準急〔あさひ〕は急行に格上げされて朝夕それぞれ2往復の運転となった。仙台と新潟を結ぶルートは磐越西線の郡山経由もあり、急行〔あがの〕が〔あさひ〕と同様、仙台と新潟を結んでいたが、仙台、山形、米沢、新潟と結ぶ急行〔あさひ〕は活躍を続けた。

 上越新幹線の列車愛称名称に〔あさひ〕と決定されると、開業前の1982年(昭和57年)5月1日から、急行〔あさひ〕は急行〔べにばな〕に名称が変更された。その後、急行〔べにばな〕は、1985年3月14日に仙台─山形間が廃止され運転区間が山形─新潟間になり、1991年(平成3年)8月27日に山形新幹線工事によるダイヤ改正でさらに運転区間が縮まり米沢─新潟間となり、快速列車に格下げされた。今でも活躍を続けているが、新潟まで乗り入れるのは1往復(残り1往復は米沢線内のみ運転)となっている。

 2004年(平成16年)8月28日・29日には、新潟─米沢間に急行〔あさひ〕がリバイバル運転した。

 未来永劫朝日≠フように輝き続けてほしい。そんな人々の思いが〔あさひ〕にはたくさん詰まっていたのではないだろうか――

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