| History of "TOKI" |
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上越新幹線開業
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日本海へグリーンライン
1982年(昭和57年)11月15日(月曜日)。「日本海へグリーンライン」のキャッチフレーズの下、上越新幹線・大宮─新潟間(269.6km)が開業した。東海道新幹線の開業から18年経って、昔は裏日本≠ニ半ば蔑称された日本海側にも新幹線が到達した。
東京─大宮間は、用地買収が難航し、新幹線通過による騒音問題の解消、通勤新線の併設問題などが山積し、上越新幹線は大宮までの暫定的な開業となり、上野─大宮間は在来線の〔新幹線リレー号〕が文字通りリレー≠キることとなった。
大宮6時35分発の〔とき301号〕、新潟6時45分発の〔あさひ190号〕が上り下りそれぞれの一番列車となり、盛大な出発式が挙行された。最高210km/hの高速鉄道の開業、つまり高速交通時代の到来に、鉄道ファンだけでなく多くの沿線の人たちが、平日にもかかわらず新幹線駅を訪れ、祝賀ムードに包まれた。新潟駅は400人以上が列をなして、新幹線改札口が開くのを待った。6時35分から新潟駅14番線ホームで開催された出発式には、高木文雄国鉄総裁、君健男新潟県知事らが出席したが、上越新幹線の建設・開業に絶大な影響力を発揮したといわれる田中角榮元首相の姿はなかった。14番線ホームは一般の入場者や関係者で身動きをとるのも難しく、テレビやカメラの放列が〔あさひ190号〕を被写体にしていた。発車1分前の6時44分、一番列車の発車ベルが響く中、高木総裁、君知事ら7名がテープカット、仲矢新潟鉄道管理局長ら5名がくす玉を割った。6時45分、大久保政賢新潟商工会議所会頭の音頭で万歳が響くなか、〔あさひ190号〕が静かに動き出し、拍手に送られてアイボリーホワイトと緑の帯が流れるように新潟駅を後にした。上空には一番列車を追跡するテレビ局のヘリが飛んでいた。
その一方で、新幹線が止まらなくなった地域では、確かに急行〔佐渡〕などが存続されたが、新幹線による時間短縮よりも、東京や新潟に直通できなくなった影響の方が大きかったことも否めない事実でもあった。余談だが、東京・羽田と新潟を55分で結んだTDA(東亜国内航空→日本エアシステム→日本航空システム)の航空便は廃止された。
上越新幹線開業当時、当然のことだが「新幹線通勤」や「新幹線スキー」が一般的ではなかった。それに加え、東海道・山陽新幹線のように東名阪、さらに太平洋ベルト地帯の大都市を抱えているでも、東北新幹線のように郡山、福島、仙台、盛岡、八戸、青森の各都市と東京との動脈を形成しているでもなかった。そのため、上越新幹線は利用客の低迷に苦しむと予想された。確かに、新潟の地方紙『新潟日報』のように歓迎ムードが濃かった一方で、全国紙は国鉄の財政赤字と絡め、「我田引鉄の新幹線」と今後を危惧する向きが強かった。
累積赤字に苦しんでいた国鉄は、少しでも乗客増をはかろうと、駅に到着する前の放送にその地域にちなむ民謡などのオルゴールメロディーを流した。>>>[アーカイヴズ]-[旧車内放送チャイムの曲目] 1991年(平成3年)の東京開業の際にこのオルゴールメロディーは廃止され、現在では東北・山形・秋田新幹線、上越・長野新幹線でそれぞれ各駅共通のメロディーが使用されている。ちなみに、メロディーの後に流れる自動放送(「まもなく、終点、新潟です。……」)の声の主は、フジテレビのアナウンサー、鉄道ファンの堺正幸氏が開業以来担当している。
〔あさひ〕をサポートする名脇役へ
在来線特急〔とき〕の名は、上越新幹線の「こだま」タイプの各駅停車型列車愛称名称に引き継がれ、東京と新潟を結ぶ重責を新時代も担った。一方、「ひかり」タイプの速達型は〔あさひ〕の名を授かった。〔とき〕と〔あさひ〕はいずれも東北・上越新幹線向けに耐寒・耐雪装備をフルに備え新製された200系電車12両編成(グリーン車:1両、ビュッフェ:半室、普通車:10両+半室)が使用され、〔とき〕は10往復、〔あさひ〕は11往復が大宮−新潟間に設定された。大宮での〔新幹線リレー号〕への乗り換えがあるとはいえ、上野−新潟間は在来線時代の4時間10分台から2時間30分台に大幅に短縮された。>>>[アーカイヴズ]-[WinDIA]-[上越新幹線開業時のダイヤ]
速達型の〔あさひ〕がどうしても脚光を浴びる中、〔とき〕は地道に〔あさひ〕をサポートする名脇役として、来る日も来る日も東京と新潟を結ぶべく走り続けた。
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