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History of "TOKI"
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上越新幹線着工

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全国新幹線鉄道網構想 1964年(昭和39年)10月1日に東海道新幹線が開業した。東海道本線の輸送力を増強させるための新規別線建設だったが、従来の在来線とは全く別のシステムが導入された。この夢の超特急%穴C道新幹線が開業し、東京−新大阪間が3時間10分で結ばれ、日本の社会・経済のシステムに激変をもたらした。

 「ひかりは西へ」のキャッチフレーズの下、岡山へ、博多へと山陽新幹線の建設工事が進む中、1969年(昭和44年)5月30日、時の内閣、佐藤榮作内閣の閣議で「新全国総合開発計画」(全国新幹線鉄道網構想)が決定された。これを受けて、全国新幹線鉄道整備法が公布された。1971年(昭和46年)4月には運輸大臣から日本鉄道建設公団に上越新幹線の建設が指示された。1971年(昭和46年)12月9日に大清水だいしみずトンネル(保戸野沢工区、万太郎工区)で着工された。総工費は4,800億円(1971年価格)、営業開始目標は1976年度(昭和51年度)だった。

 しかし、中東情勢から端を発したオイルショックが日本中を襲い、日本はそれまでの高度経済成長から低成長時代へ突入した。オイルショックは上越新幹線の建設工事にも少なからず影響を及ぼした。

 それに加え、工事計画の変更や物価の高騰によりによって、総工費4,800億円が1兆6,860億円(1981年価格)と3.5倍に膨れあがった(物価変動を考慮しても約2.34倍)。さらに、「青函よりも難しい」といわれた中山トンネルの掘削工事では2度の大出水事故によりルート変更を余儀なくされ、また大清水トンネルの爆発事故では16名の尊い生命いのちが奪われた。

上越新幹線路線図 結局、これらの事故やルート変更により、同時に工事が進められていた東北新幹線との同時開業も見送られ、埼玉県南の戸田・浦和・与野3市を中心とした建設反対運動や赤羽付近での立ち退き拒否運動などで、東京−大宮間は工事が遅々と進まず、「大宮暫定開業」方式が採用された。

 1980年(昭和55年)11月5日、上越新幹線・長岡−新潟間で、新潟に海路搬入した200系電車を用いて、初めての走行試験が実施された。試験走行とはいえ、200系電車が本線上を初めては知る姿に、新潟の人々は「新しい時代の到来」を感じていたのかもしれない。

 1981年(昭和56年)末までには、そのほとんどがトンネル区間の高崎−長岡間のトンネル(榛名、中山、月夜野、大清水、湯沢、石打、第3大沢、塩沢、浦佐、堀之内、魚沼、妙見、滝谷)は関係者の不断の努力によりいずれも貫通し、雪害対策の試験走行も実施された。

 さらに、それまで「(仮称)」が付されていた上毛高原、燕三条両駅の駅名が正式に上毛高原、燕三条と決まり、また。公募によって募集された上越新幹線の列車名愛称も〔あさひ〕と〔とき〕と決定し、1982年(昭和57年)4月には「11月15日開業」と国鉄が正式に開業日を発表し、「新しい時代の到来」が現実味を帯びてきた。

 一方、順調に建設工事が進んだ東北新幹線は、お盆を中心とした夏期繁忙期を過ぎて上越新幹線の開業を待っているわけにもいかず、1982年(昭和57年)6月23日、大宮−盛岡間が開業した。
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