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History of "TOKI"
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特急〔とき〕全盛期へ

181系電車登場

>>>[ときの歴史]-[特急〔とき〕を支えた車輌たちと男たち]

 1964年(昭和39年)10月1日、「夢の超特急」東海道新幹線が開業し、最高速度210km/hの超特急〔ひかり〕が走り出した。それまで、東海道本線を走っていた特急〔こだま〕などは廃止や大阪以西での運転となった。特急〔こだま〕などに使用されていた151系電車が余剰となった。その一方で、特急〔とき〕は朝:新潟発上野行、夕:上野発新潟行のみで、他の時間帯にも旅客需要があった。そのため、東海道本線で活躍していた151系電車を特急〔とき〕で走らせることとなった。

 しかし、ただ特急〔とき〕運転開始前の走行試験でも151系電車では勾配区間の走行などに問題があった。そのため、151系電車を改造して、新形式181系電車が登場した。特急〔とき〕に使用されていた161系電車も、それに合わせて181系電車に改造された。151系電車・161系電車からの改造車を区分するため、151系電車からの改造車を181系0番台電車、161系電車からの改造車を181系40番台電車とした。

151系電車・161系電車・181系電車の性能比較
  151系 161系 181系
定格速度(km/h) 82 68 72
定格引張力(kg) 3,500 4,250 4,860
主電動機出力 100kW×8 100kW×8 120kW×8
歯車比 3.50 4.21 3.50
勾配抑速ブレーキ ×
主抵抗器 自然冷却式 強制通風式 強制通風式
181系電車の製造
151系電車から改造 150輌
161系電車から改造 18輌
新造車 59輌
481系電車から改造 3輌
合計 230輌
これらには山陽本線向け181系電車も含まれる

 これらの改造工事が順次完成したことから、1964年(昭和39年)の年末〜翌年始に臨時特急〔とき〕(3001M・3002M)が初めて運転された。

満を持し2往復へ増強

1965年3月
特急〔とき〕時刻
1M 3M 列車番号 2M 4M
第1とき 第2とき   第1とき 第2とき
7:50 16:45 上 野 13:15 20:00
9:10 18:09 高 崎 11:52 18:39
19:00 水 上 11:01
10:33 越後湯沢 17:19
11:41 20:32 長 岡 9:28 16:12
12:21 21:16 新 津 8:44 15:30
12:35 21:30 新 潟 8:30 15:15

 国鉄は、1965年(昭和40年)3月20日にダイヤ改正を実施した。特急〔とき〕は、朝:新潟発上野行、夕:上野発新潟行に加え、朝:上野発新潟行、夕:新潟発上野行の1往復を増発し、2往復となった(実際の運転開始は3月25日)。さらに、水上、越後湯沢にも各1往復ずつ新規に停車した。また、従前の9輌編成から10両編成に編成自体が増結され、輸送力も増強された。

 特急〔とき〕の増発からおよそ半年後の10月1日、再度ダイヤ改正が実施された。このダイヤ改正は全国規模のダイヤ改正で、特急〔とき〕では、大宮に2往復とも停車するようになり、東三条にも1往復が停車するようになった。運転時刻などに大きな変化はなかったが、列車番号がトップナンバーの1M〜4Mを東北本線の特急〔ひばり〕〔やまびこ〕に譲り、特急〔とき〕は2001M〜2004Mとなった。また、このダイヤ改正では、特急〔白鳥〕のうち、「信越白鳥」と呼ばれた大阪−直江津−上野間の列車を、信越本線回りの上野−金沢間の特急〔はくたか〕として独立させた。この〔はくたか〕は特急〔とき〕デビュー前に上野─新潟間の特急の列車名称として国鉄新潟支社が第一の候補としていた列車名称であった。>>>[ときの歴史]-[特急〔とき〕デビュー]「本社営業局〔とき〕vs新潟支社〔はくたか〕」

成長を続ける特急〔とき〕

 運転台上のヘッドライト(赤丸部分)が取り外された。この写真は、JR東日本新潟車両センターに動態保存されているクハ181-45で、ヘッドライトの形は運転当時とは異なる。

 1966年(昭和41年)10月1日の全国ダイヤ改正では、前年に2往復に増発された特急〔とき〕が昼間の運転を加え、3往復体制に増強された。さらに、このダイヤ改正では特急〔とき〕の増発だけではなく、特急〔とき〕に使用されている181系電車の外観にも変化が見られた。先頭車両の運転台の上に付けられていたヘッドライトが外された。これは、このダイヤ改正で中央本線(中央東線)にデビューした特急〔あずさ〕(新宿─松本間)と共通に運用するためで、中央本線(中央東線)のトンネルの断面高が低く、運転台上のヘッドライトが損傷するおそれがあるためだった。この時、ヘッドライトを外して以来、1982年(昭和57年)11月の181系電車全車引退時まで運転台上のヘッドライトは再度取り付けられることはなかった。>>>[クハ181-45]

 特急〔とき〕と特急〔あずさ〕は、181系電車の共通運用だけではなく、後に登場する183系1000番台電車などでも関係があり、特急〔とき〕の歴史をひもとく時、要所要所に特急〔あずさ〕の名が登場する。

 1967年(昭和42年)9月、上越国境を貫く第二の鉄道トンネル「新清水トンネル」が完成し、上越線の全線複線化が完成した。これにより、上野─新潟間が全線複線化され、輸送力も飛躍的に向上した。10月1日に実施されたダイヤ改正では、上越線の全線複線化を反映したダイヤ改正となった。上野−新潟間は10〜15分程度短縮し、4時間30分で結ばれるようになった。また、1往復(下り〔第3とき〕、上り〔第1とき〕)が引上留置線を活用して東京駅まで乗り入れた。

「特急」の名に恥じない最高120km/h運転へ

1968年10月 特急〔とき〕時刻
2001M 6003M 2005M 6007M 2009M 列車番号 2002M 6004M 2006M 6008M 2010M
とき1号 とき2号 とき3号 とき4号 とき5号   とき1号 とき2号 とき3号 とき4号 とき5号
        18:00 東 京 12:07        
8:05 10:00 13:05 15:05 18:07 上 野 12:00 14:05 17:05 19:05 22:05
8:27 10:22 大 宮 18:43 21:43
9:16 14:15 16:16 高 崎 12:57 15:57 20:55
11:54 15:00 16:59 19:59 水 上 10:12 12:12 15:11 17:14
10:22 12:17 15:22 17:22 越後湯沢 11:41 14:41 16:43 19:42
17:49 小 出 16:16
11:15 13:10 16:15 18:15 21:12 長 岡 8:50 10:50 13:50 15:52 18:51
16:32 21:29 東三条 8:32 13:32
11:52 16:52 21:49 新 津 8:12 13:12 18:12
12:05 14:00 17:05 19:05 22:02 新 潟 8:00 10:00 13:00 15:00 18:00

 ヨン・サン・トオ≠ニ呼ばれる1968年(昭和43年)10月1日の国鉄白紙ダイヤ改正で、特急〔とき〕は、最高120km/h運転を開始し、上野─新潟間は最短3時間55分で結ばれ、4時間の壁を破った。また、特急〔とき〕に季節列車(あらかじめ運転する曜日を定めたり多客期を中心に運転される列車)2往復が加わり、定期列車3往復+季節列車2往復の5往復体制となった。また、従前の〔第1とき〕、〔第2とき〕などの名称から、〔とき1号〕、〔とき2号〕と変更された。しかし、まだ「下り:奇数、上り:偶数」の名称につく番号の振り方ではなく、それぞれ上り下りに〔とき1号〕、〔とき2号〕が1本ずつ運転されていた。

 ヨン・サン・トオ<_イヤ改正が国鉄の全盛期だったかもしれない。東海道新幹線が開業した1964年(昭和39年)度には単年度赤字を計上し、以来、国鉄の経営は数次の再建計画を策定したものの、赤字経営から脱却することはなかった。それでも、特急〔とき〕は、旺盛な旅客需要に支えられ、好調な運転を続けた。

 1969年(昭和44年)7月1日、181系電車がそれまで「本籍地」としていた東京・田町電車区から所属区を新潟運転所に配置換えされた。同年10月1日のダイヤ改正で、特急〔とき〕の“弟分”ともいえる特急列車が登場した。それまで信越本線回りの気動車特急として運転されていた〔はくたか〕(上野−金沢間)が、485系電車に車輌変更され、さらに経路も上越線回りとされた。一見すると、遠回りで所要時間が延びたと考えられるが、気動車から電車に変更されたことで全体的なスピードアップができ、また、上越線が信越本線より高速運転ができることから、従前の〔はくたか〕よりも30分程度の所要時間が短縮された。また、上野─秋田間を上越線・羽越本線を経由する特急〔いなほ〕がキハ80系・82系気動車を使用して運転を開始した。

 この頃から、急行〔佐渡〕から特急〔とき〕への旅客需要の変動がみられるようになった。それまで急行〔佐渡〕の運転本数が特急〔とき〕のそれより多かったが、1970年(昭和45年)10月1日のダイヤ改正で、同数の6往復となった。高度経済成長時代も末期を迎え、「特別急行」がそれほど「特別」な存在ではなく、会社の重役クラスや富裕層に限らず誰でも利用できる「特急」に変化していったことをうかがわせる。

気軽に乗れる「特急」へ

 1978年(昭和53年)の特急〔とき〕。この頃は食堂車が連結されていた。下は1979年(昭和54年)の特急〔とき〕。
(上2点の画像提供:高柳功氏)
新潟県人にとって、特急〔とき〕・急行〔佐渡〕とは?

 高度経済成長期、地方の農家の長男は先祖代々の土地を守るために跡を継ぎ、二男・三男などは、中学や高校卒業後、「集団就職列車」と後に呼ばれた夜行列車でふるさとを離れ、大都会・東京にその人生を託した。そして、農作業が休みとなる晩秋から雪解けまで、その長男も「出稼ぎ列車」に揺られて、東京に出た。その時代、専ら活躍したのは夜行のドン行、今風にいえば夜行普通列車だった。昼間の急行〔越路〕〔佐渡〕に乗ることさえ憚られた時代があった。

 しかし、時代は流れ、高度経済成長の波は裏日本と呼ばれた日本海側の地方にも及んだが、それでも出稼ぎ列車といえば夜行急行〔越路〕が定番で、特急〔とき〕は「高嶺の花」、上京して一旗揚げて故郷に錦を飾るときに乗りたい「憧れの列車」であった。

 だからこそ、上野駅のホームで特急〔とき〕や急行〔佐渡〕を見るだけで故郷を思い出し、車内に一歩乗り込めば、都会暮らしの緊張から解放され、「新潟弁」が自然と出てくる、そんな「故郷の匂いがする列車」でもあった。

 時代はさらに流れても、特急〔とき〕や急行〔佐渡〕に一歩乗り込めば、そこは「懐かしい故郷の匂い」がする母なる列車≠ナあり続けた。なにより、新潟の人たちにとっては「上京列車」であり、東京に出てきた者にとっては懐かしい故郷への「帰省列車」であり続けたことはいうまでもない。

 1972年(昭和47年)は、1872年(明治5年)の鉄道開業から100年の鉄道百年≠フ記念すべき年で、3月15日には「ひかりは西へ」のキャッチフレーズの下、山陽新幹線・新大阪−岡山間が開業した。それに伴うダイヤ改正で、特急〔とき〕は1往復増発され7往復となった。下りの〔とき5号〕〔とき6号〕〔とき7号〕は、上野−新潟間を3時間51分で結び、最短記録を更新し、在来線特急時代はこれがタイトルホルダーとなった。特急〔とき〕は原則として上野を奇数時30分に、新潟を偶数時40分にそれぞれ発車するようにダイヤが設定された。

 同年10月2日の全国ダイヤ改正では、特急〔とき〕が3往復も“大増発”され、一気に10往復体制が確立された。東北本線の看板特急〔ひばり〕とともに、「Lエル特急」に指定された。L特急の「L」には特に意味はなく、特急:Limited Expressや直行便:Linerの頭文字を取ったもので、さらにLucky、Lovely、Llightの頭文字も含まれるといわれた。L特急の最大の特徴はそのキャッチフレーズにある「数自慢、かっきり発車、自由席」だった。

 〔とき〕の他には、〔つばめ〕〔はと〕〔しおじ〕〔ひばり〕〔あさま〕〔ひたち〕〔さざなみ〕〔わかしお〕がL特急とされた。

 そして、何よりこのダイヤ改正でL特急〔とき〕に自由席が設けられたことが、大きなターニングポイントとなるできごとだった。それまで、特急は全車両・全席が指定席で、事前に乗車券、特急券の他に指定席券も購入しなければ乗ることができなかった。それが、L特急制定を機に、事前に指定席券を購入する必要がない「自由席」を設けることとなった。駅に来て、煩わしい指定席確保の手続きなしに、サッと乗車券と自由席特急券を購入すれば、そのまま特急に乗車できるのが最大の魅力で、短距離の利用客の乗りやすさをアピールし、名実ともに「気軽にいつでも乗れる特急」に変貌を遂げていった。なお、L特急〔とき〕では、9号車・10号車の一部が自由席となった。この頃の自由席はあくまでも例外的な扱いで、現代のように全車両の半分程度が自由席というような時代ではなかった。

 このダイヤ改正は、羽越本線と白新線の電化完成によるもので、これによりいわゆる「日本海縦貫線」(大阪−青森間)が全て電化され、L特急〔とき〕よりデビューが1年早く「先輩格」にあたる特急〔白鳥〕が、それまでの気動車から485系電車に変更され、また特急〔いなほ〕も同様に、気動車から485系電車に変更され、さらに1往復増発された。翌年、オイルショックが日本中を襲い、高度経済成長に別れを告げ、低成長時代に突入するが、高度経済成長の最後を飾るべく、国鉄の1972年(昭和47年)10月2日のダイヤ改正は、まさに「国鉄絶頂のダイヤ改正」ともいえるだろう。逆にいえば、国鉄は再建計画の坂を転げ落ち、その先に待ちかまえているとも知らない「国鉄の分割・民営化」への序曲だったのかもしれない。

上越特急のエースとして

 上越線の「エース」として活躍した181系電車の特急〔とき〕は、現在でも新潟市内に保存されている。>>>[クハ181-45]

 1973年(昭和48年)3月31日、東北新幹線・東京駅工事の着手により、東京発着のL特急〔とき〕が使用していた線路とホームが使用できなくなり、翌4月1日から下り最終の〔とき10号〕と上り初発の〔とき1号〕が上野発着に改められた。細々と1967年(昭和42年)10月から5年半、人々の記憶に残る間もなく、東京発着のL特急〔とき〕は姿を消した。

 同年10月1日の全国規模のダイヤ改正では、L特急〔とき〕がさらに3往復増発され、13往復体制となった。上りL特急〔とき〕は新潟を毎時50分(6時〜18時)発車の完全ネットダイヤ化が完成した。下りL特急〔とき〕も、一部を除いて上野を毎時38分に発車するダイヤとなった。13往復運転は東北本線のL特急〔ひばり〕と並んで、最多の本数を誇り、いかにL特急〔とき〕が「上越特急のエース」にまで成長したかがうかがえる。しかし、181系電車は登場以来約10年が経過し、一部の車輌は151系電車・161系電車から改造したため、車歴としては10年以上をゆうに経過していた。さらに、最高120km/h運転が181系電車の老朽化を早めたのか、乗客からは揺れすぎで乗り心地がよくないとの苦情が寄せられるようになった。

「雪に弱い」と酷評された181系電車

 上越新幹線も関越自動車道もなかったこの時代、13往復に増発されたL特急〔とき〕は、まさに東京と新潟を結ぶ大動脈≠セった。しかし、冬が少し強く降り積もるだけで、いとも簡単に遅延が生じ、10輌編成11本で13往復のタイトな運用だったL特急〔とき〕は、折り返しの列車まで遅延が生じる事態となり、L特急〔とき〕の定時運転を目指した冬季輸送体制の確立が求められていた。けれどもサンパチ豪雪を経験し、それなりの対策を講じた国鉄にとって、赤字経営の脱却が先決で、どうしても越冬対策はなおざりにされがちだった。

 そこにサンパチ豪雪以来約10年ぶりの豪雪が新潟地方を襲った。降雪・積雪量ともサンパチ豪雪のそれの比ではないが、なによりL特急〔とき〕が次々と雪害故障しダウンしたことが問題となった。13往復の大動脈≠ェズタズタに切り裂かれたようなL特急〔とき〕は、まさに瀕死寸前の事態を迎えた。

181系電車と183系1000番台電車

 1974年(昭和49年)1月26日、下りL特急〔とき5号〕が車輌故障を起こした。21輌しかない予備車をやりくりしても、L特急〔とき〕の運休は相次いだ。2月の建国記念の日に係る連休には全面運転を再開できたが、それもつかの間、〔とき〕のダイヤは日に日に悪化した。ひどい日には13往復中5往復も運休した日があった。金沢から489系電車、青森から485系電車が応援に駆けつけ、東京と新潟を結ぶ大動脈≠少しでも回復させようとした。

 181系電車の雪害損傷は予想以上にひどく、当時、181系電車の保守、点検を一手に引き受けていた新潟運転所上沼垂支所の国鉄マンたちは修繕作業に翻弄され続けた。

 このような事態を根本から解消するには、181系電車より「雪に強い」耐寒耐雪装備の新型電車の導入しかなかった。逆にこのような事態になってやっと新型電車の導入に動いた国鉄には、遅くなった理由があった。もちろん、国鉄の経営悪化の問題があったが、すでに工事が進められていた上越新幹線の開業が、当時は1976年(昭和51年)度以降に予定されて、新幹線開業時に181系電車を全車輌引退させる計画があったのだと容易に考えられる。その一方で、オイルショックに襲われた日本経済の低迷、国鉄の累積赤字問題などにより、新幹線建設工事が凍結され、しばらくの間、在来線のL特急〔とき〕の運転が必要であることが明らかになったことも要因と考えられる。

 さて、ここで導入されたのは、183系1000番台電車であった。通常、新型車輌の導入には最低でも10ヶ月は必要といわれた時代にたった8ヶ月で登場させた。ほとほと国鉄も懲りたと感じられる早さだった。183系1000番台電車は、上越線専用電車では新幹線開業後にムダになってしまうことは誰の目にも明白だったので、上越新幹線開業後も中央本線や房総各線で動けるように、あらかじめ設計された。

 1974年(昭和49年)12月28日からL特急〔とき〕の3往復に183系1000番台電車が12輌編成で導入された。一方で、183系1000番台電車は食堂車がなく、旅の愉しみよりも輸送力が重視された。183系1000番台電車は1975年(昭和50年)にも新製・増備され、1975年(昭和50年)10月1日からは、L特急〔とき〕全13往復中7往復が183系1000番台電車で運転され、181系電車(6往復)を運転本数では逆転した。

上越新幹線建設の槌音つちおとが響く中で

 1971年(昭和46年)12月9日、上越新幹線・大清水トンネルで、建設工事が着手された。上越新幹線の建設は鉄道建設公団が担当し、総工費は4,800億円(1971年〈昭和46年〉度価格)、営業開始目標は1976年度(昭和51年度)だった。しかし、オイル・ショックと国鉄の累積赤字問題などから工事はまるで「亀の歩み」の如くしか進まず、1976年(昭和51年)度の開業目標は訂正された。それでも、建設工事中は槌音が上越国境、蒲原平野に響いた。

 1975年(昭和50年)4月14日、湯檜曽ゆびそ土合どあい間の上り線が土砂崩れで不通となり、1ヶ月半近く下り線を単線として使用し、L特急〔とき〕も一部が運休された。この土砂崩れは雪解け水によるものとされ、春になっても違った形で雪に苦しめられたL特急〔とき〕の姿があった。また、1978年(昭和53年)5月18日には新潟県の赤倉山で土石流が発生し、信越本線・妙高高原−関山間が3ヶ月以上にわたり不通となり、信越本線回りの特急〔白山〕(上野−金沢間)が1往復だけ上越線を迂回運転した。

(画像提供:発車ベル使用状況

 1978年(昭和53年)は、L特急〔とき〕にとって最後のターニングポイント≠フ一年となった。

 国鉄は8月、全国の主要電車L特急に従来の文字のみの字幕から、絵入りヘッドマーク字幕に変更した。特急〔とき〕でもまず183系1000番台電車に導入され、利用客・ファンの間で好評を博した。これを受けて、181系電車にも従来の文字のみのヘッドマークから絵入りヘッドマークに変更した。以来、最後の4年間は朱鷺が描かれた緑地のヘッドマークを輝かせて、上越線の看板L特急の任を果たした。

(画像提供:いまは東京都民。氏)

 10月2日、全国規模の国鉄ダイヤ改正が実施された。特急〔とき〕の運転体制も、まさにターニングポイント≠ニなる変更点が多くみられた。

  • 従前の13往復から14往復体制に(1往復増発)
  • 運転本数が多く東北本線と線路を共有している(正式には特急〔とき〕が乗り入れている)上野−大宮間を中心に規格ダイヤを見直し
    • スピードアップよりも混雑緩和を狙った輸送力増強に主眼を置いたため、上野−新潟間は従前の3時間52分が最短4時間11分にのびた
  • 列車愛称の番号付けを「新幹線方式」の下り:奇数 上り:偶数≠ニした
    • これで1往復のみの列車以外は列車愛称の番号に上り下りで重複が避けられた
  • 181系電車も183系1000番台電車と編成を統一するため、12輌編成に増強
  • 183系1000番台電車を増備して181系電車を廃車・置き換えた
    • 181系電車で運転される特急〔とき〕は3往復に
    • 181系電車に限って営業が続けられていた食堂車が営業を終了し、編成自体から食堂車も外された
    • 増備された183系1000番台電車の一部は将来485系電車に改造することを前提に製造された

 上越新幹線工事の進捗を横目に見ながら、特急〔とき〕は活躍を続けた。1981年(昭和56年)10月には、特急〔とき〕の12号車が「禁煙車」とされた。この禁煙車の設定は全国で初めてであり、分煙が普及し健康増進法が施行された現代では、半数以上が禁煙車であるが、当時は禁煙車はたった1輌が設定されるだけだった。

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