| History of "TOKI" |
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白魔との闘い
今も語り継がれる戦後最大の里雪型豪雪
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1963年(昭和38年)1月22日夜から、新潟県長岡市、三条市を中心とした下越南部・中越北部地域は記録的な降雪、猛吹雪に見舞われた。これが、40年以上経っても語り継がれる「サンパチ豪雪」である。サンパチ豪雪は、典型的な「里雪型」の大雪で、普段の冬ではそれほど積雪しない蒲原平野にまさにドカ雪≠ェ襲い、戦後最大の雪害となった。
新潟地方を中心とした気圧配置と寒気の流れ込み方によって、山間部を中心に積雪するのが「山雪型」、平野部を中心に積雪するのが「里雪型」と、雪の降り方に特徴がある。また、サンパチ豪雪は、新潟県だけではなく、富山県、石川県、福井県でも豪雪に見舞われた。
当時の国鉄では主要駅で積雪を記録しており、東三条駅では積雪最深425cmを記録した(この記録は国鉄の記録であり、気象庁の公式記録ではない)。1月の三条市の降雪量は705cmと、同じ時期の湯沢町のそれは482cm、豪雪地として知られる高田市(現在の上越市高田)は360cmにすぎず、いかに下越南部・中越北部地域に降雪が集中したかがうかがえる。降り止まぬ雪、積もり続ける雪に、新潟県は豪雪対策本部を設置し、三条市、長岡市を中心とした地域に自衛隊が災害派遣された。豪雪による自衛隊の災害派遣はこれが初めてだった。
では、当時の交通網の重要機関だった国鉄は、このサンパチ豪雪にどう立ち向かったのか。
まず、23日、弥彦線・北三条─越後長沢間が不通になったのを皮切りに、上越線、信越本線、磐越西線、越後線、弥彦線、赤谷線の各線区で、29本の列車が途中駅で一時立往生し、運転不能となった。車内には約7,000名の乗客が缶詰め状態にされ、各駅では炊き出しを行い、乗客は空腹をしのいだ。
この時点で、新潟県内の鉄道網はマヒ状態で、当初計画されていた磐越西線回りによる上野─新潟間の迂回輸送さえも断念せざるを得なかった。なにより、宮内─新津間は、上越線を経由してくる上野からの列車、北陸本線・信越本線を経由してくる大阪・長野方面からの列車、さらに羽越本線・青森方面からの列車が集中する重要区間で、この区間が運転不能となると、その影響は新潟県内だけでなく、広範囲に及んだ。もっとも、北陸地方も大雪に見舞われ、北陸本線は全線にわたって運転を見合わせ、大阪・金沢方面からの列車はこなかったが。
| 急行〔越路〕 白魔との苦闘≠フ112時間24分 |
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「サンパチ豪雪」の国鉄の混乱ぶりを象徴するのが、新潟発上野行の上り客車急行〔越路〕。
急行〔越路〕(704レ)は、雪がさほどひどくなかった新潟駅を定刻の1月23日16時5分に発った。新津付近から先で激しい雪に見舞われ、急行〔越路〕は、長岡駅の手前、押切駅で雪に行く手を阻まれ、運転抑止の事態に陥った。国鉄当局の懸命な除雪作業をあざ笑うかのように雪は降り続け、全く動けなかった。
押切駅で立ち往生していた急行〔越路〕では、24日22時過ぎ、乗客が気分が悪いと訴え始めた。その原因は、車内の暖房が故障し、暖を取るために配られた火鉢だった。窓を閉め切った車内で一酸化炭素中毒が発生した。乗客全員が一旦押切駅近くの農協施設に避難する事態となった。既に新潟を発って24時間以上が経ち、いつ目的地に着くかわからぬ苛立ちも加わって、疲労困憊の様子だった。
救援の「キマロキ」と呼ばれる除雪列車が長岡から向かったが、押切駅までなかなか行くことができず、やっと押切駅から急行〔越路〕を後ろに従えて戻ってきた頃には夜が明けようとしていた。急行〔越路〕はその後、長岡駅からは動くことができなかった。乗客たちは駅近くの旅館に避難していた。
26日、27日と時が経っても急行〔越路〕は動くことはなかった。激しかった降雪は小康状態となり、追加応援の国鉄保線区員や自衛隊員の除雪作業が功を奏し、28日1時45分、先頭に除雪列車を連結した急行〔越路〕は、長岡駅を発った。既に遅れは100時間になろうとしていた。
1月28日8時29分、急行〔越路〕は駅長が出迎える上野駅16番線ホームにたどり着いた。屋根には1m近く雪が積もったまま、車体のあちらこちらにつららをつけたまま、まさに満身創痍の急行〔越路〕だった。当初は350名ほどいた乗客も約100名ほどしか残っていなかった。
所要時間112時間24分(4日と16時間24分)、遅延106時間31分。表定速度(平均速度)2.93km/hは歩く速度より遅くなった。遅延記録106時間31分は、空前絶後の雪害遅延記録となった。
新潟県を襲ったサンパチ豪雪を象徴したのが、この急行〔越路〕の苦闘で、人々の記憶に残り、語り継がれていった。地元紙・新潟日報社が編纂した『20世紀にいがた100シーン』にも〔越路〕の苦闘が記されている。
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翌24日、立往生している列車の救出を最優先にするべく、自衛隊員・地元消防団員8,500名が動員され、列車の救出にあたった。しかし、懸命の除雪作業にもかかわらず、信越本線・新津−長岡間、弥彦線、只見線、飯山線、魚沼線は全面的に運転不能状態に陥ったままだった。
前年登場したばかりの特急〔とき〕は、三条駅で3日間足止めされていたままだった。結局、特急〔とき〕は後に運転を打ち切られた。
25日、26日、27日になっても、雪は降り続き、各地から派遣された応援の除雪要員が雪をかき分けやってきたが、重たく湿った雪に除雪作業は遅々として進まなかった。「キマロキ」と呼ばれる除雪専用列車さえも、降り続く雪に歯が立たず、結局は人海戦術を展開し雪と闘う以外、除雪の術はなかった。国鉄新潟支社は、長岡、東三条、新津などを拠点に自衛隊・救援隊1万2,000名を動員した。
28日になって雪も小康状態となり、夕方になって信越本線・長岡─新津間は6日ぶりに運転を再開した。しかし、ダイヤは大幅に乱れ、上野方面などへの長距離列車は運転されず、短距離のローカル列車を乗り継ぐしかなかった。それに、当時の貨物輸送は鉄道が大きなウェイトを占め、鉄道網の混乱は、日用品の欠品や食糧品の品薄を生じさせ、豪雪に見舞われた住民たちにも影響を及ぼした。そのため、運転再開直後は、貨物列車の運転が優先され、特急〔とき〕などの長距離優等列車の運転再開までは時間を要した。
暦は如月に変わっても、上野−新潟間の直通列車は運転できなかった。やっと運転できたのは2月7日。最後まで不通区間があった弥彦線も翌8日に運転を再開し、新潟県内の鉄道網は一通り復旧したが、まだ特急〔とき〕などの長距離優等列車の運転は見合わされていた。
特急〔とき〕の運転が再開されたのは、2月18日。実に25日ぶりにクリーム色と臙脂色の161系電車が、雪壁の合間を縫うように走った。サンパチ豪雪は、前年に運転を開始した特急〔とき〕にとって、最初の大きな試練でもあった。
サンパチ豪雪による国鉄新潟支社の被害額は7億1,400万円(当時)に上った。また、サンパチ豪雪による新潟県内の被害は、死者12名、負傷者399名、全壊家屋53戸、半壊家屋182戸、融雪による床上浸水197戸、床下浸水3,205戸。排除雪に従事した消防団員のべ1万0,530名、自衛隊員のべ12万3,282名。被害総額109億円(当時)に上った。
特急〔とき〕を襲った新潟地震
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1964年(昭和39年)4月25日に東海道本線・静岡操車場構内(草薙─静岡間)で発生した踏切事故により、特急〔とき〕に使用されていた161系電車の一部がピンチヒッターとして特急〔こだま〕〔富士〕に供出され、準急〔日光〕などの157系電車を借り受け、161系電車と157系電車の混合編成で運転されていた。
そのような変則的な運転体制の特急〔とき〕を新潟地震が襲った。6月16日、マグニチュード7.5の激震が新潟県を中心とする北陸・東北地方を襲った。
特急〔とき〕は、地震発生時には上野駅到着前だった。幸運にも新潟地震の直接の被害を受けることはなかった。しかし、新津─新潟間で運休し、特に新潟駅周辺で壊滅的な被害を受けたため、特急〔とき〕は、新潟駅が機能回復するまで運休された。
上野─新潟間の急行列車は、新潟に入れず新津で折り返し、22日になってようやく臨時列車が仮設された笹口臨時ホームに乗り入れた。24日朝には前夜上野を発った急行〔越後〕がホームの復旧が進んだ新潟駅まで入り、急行〔弥彦〕〔佐渡〕〔越路〕〔ゆきぐに〕〔越後〕の運転が再開されたが、特急〔とき〕の運転再開は27日まで待たなければならなかった。
運転を再開した特急〔とき〕は、運休前と変わらず161系電車と157系電車の混合編成で、正規の161系電車のみでの運転は、7月1日からだった。まさに、変則に変則を重ねた1964年(昭和39年)6月の特急〔とき〕だった。
新潟地震による国鉄新潟支社の被害額は約90億円に上った。
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