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History of "TOKI"
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白魔との闘い

今も語り継がれる戦後最大の里雪型豪雪

雪との闘い〜新潟の宿命〜

 「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。」―― これは、川端康成の小説『雪国』の冒頭の一節だが、雪国の人々からすれば、雪はあまり文学的な対象ではなかっただろう。雪は、雨と違い音を立てずに降り積もる。一晩で1m近くも積もり、翌朝起きて外を眺めれば静寂が包む別世界が広がってしまうことも不思議ではない。人々は来る日も来る日も屋根の雪を下ろし、春が来るのをじっと待っていた。現在のように、除雪設備や消雪設備が十分ではなかった1963年(昭和38年)当時の「サンパチ豪雪」は、まさに「雪との闘い」たった。

 雪国の人々は雪との接し方を知っている。そして、雪と闘い、静寂の夜をじっと耐え、雪解けの春を待ち続ける。雪国の人々はそれを天命とある種の悟りに似たものを持っている。

 「サンパチ豪雪」のこの年、さすがに雪国の暮らしに慣れている人々も積もり続ける雪を「白魔」と思いたいほど、雪が積もった。1階の玄関からの出入りが不可能になり、2階の窓から出入りしたり、電線をまたいで買い物したり、今の生活からは考えられない雪との闘いだった。当時、交通の大動脈を一手に担っていた国鉄の鉄道網も雪に阻まれ、生活物資が滞ることさえあった。河川に雪を捨てることもあるが、この時は、雪が多すぎて、逆に下流側で洪水の危険が発生し、雪を捨てることさえできなくなり、災害派遣された自衛隊の火炎放射器戦術も降り続く雪の前には歯が立たなかった。雪の重みに家屋が潰れたり、除雪中の死亡事故が相次いだ。

 この年以降、記録に残る豪雪は数少なくなった。それは、地球温暖化の影響と除雪消雪技術の向上からで、冬でも雪を気にすることなく生活できるようになり、時を同じくして裏日本と呼ばれた新潟地方は太平洋側・表日本との対極としての「裏日本」から脱却していった。今では、雪不足のスキー場で人工降雪機が活躍する時代になった。

>>>ユキダス「豪雪と闘う」 yuyu.ed.niigata-u.ac.jp/Snow38/

 1963年(昭和38年)1月22日夜から、新潟県長岡市、三条市を中心とした下越かえつ南部・中越ちゅうえつ北部地域は記録的な降雪、猛吹雪に見舞われた。これが、40年以上経っても語り継がれる「サンパチ豪雪」である。サンパチ豪雪は、典型的な「里雪型」の大雪で、普段の冬ではそれほど積雪しない蒲原平野にまさにドカ雪≠ェ襲い、戦後最大の雪害となった。

 新潟地方を中心とした気圧配置と寒気の流れ込み方によって、山間部を中心に積雪するのが「山雪型」、平野部を中心に積雪するのが「里雪型」と、雪の降り方に特徴がある。また、サンパチ豪雪は、新潟県だけではなく、富山県、石川県、福井県でも豪雪に見舞われた。

 当時の国鉄では主要駅で積雪を記録しており、東三条駅では積雪最深425cmを記録した(この記録は国鉄の記録であり、気象庁の公式記録ではない)。1月の三条市の降雪量は705cmと、同じ時期の湯沢町のそれは482cm、豪雪地として知られる高田市(現在の上越市高田)は360cmにすぎず、いかに下越南部・中越北部地域に降雪が集中したかがうかがえる。降り止まぬ雪、積もり続ける雪に、新潟県は豪雪対策本部を設置し、三条市、長岡市を中心とした地域に自衛隊が災害派遣された。豪雪による自衛隊の災害派遣はこれが初めてだった。

 では、当時の交通網の重要機関だった国鉄は、このサンパチ豪雪にどう立ち向かったのか。

 まず、23日、弥彦線・北三条─越後長沢間が不通になったのを皮切りに、上越線、信越本線、磐越西線、越後線、弥彦線、赤谷線の各線区で、29本の列車が途中駅で一時立往生し、運転不能となった。車内には約7,000名の乗客が缶詰め状態にされ、各駅では炊き出しを行い、乗客は空腹をしのいだ。

 この時点で、新潟県内の鉄道網はマヒ状態で、当初計画されていた磐越西線回りによる上野─新潟間の迂回輸送さえも断念せざるを得なかった。なにより、宮内─新津間は、上越線を経由してくる上野からの列車、北陸本線・信越本線を経由してくる大阪・長野方面からの列車、さらに羽越本線・青森方面からの列車が集中する重要区間で、この区間が運転不能となると、その影響は新潟県内だけでなく、広範囲に及んだ。もっとも、北陸地方も大雪に見舞われ、北陸本線は全線にわたって運転を見合わせ、大阪・金沢方面からの列車はこなかったが。

急行〔越路〕 白魔との苦闘≠フ112時間24分

 「サンパチ豪雪」の国鉄の混乱ぶりを象徴するのが、新潟発上野行の上り客車急行〔越路〕。
 急行〔越路〕(704レ)は、雪がさほどひどくなかった新潟駅を定刻の1月23日16時5分に発った。新津付近から先で激しい雪に見舞われ、急行〔越路〕は、長岡駅の手前、押切駅で雪に行く手を阻まれ、運転抑止の事態に陥った。国鉄当局の懸命な除雪作業をあざ笑うかのように雪は降り続け、全く動けなかった。
 押切駅で立ち往生していた急行〔越路〕では、24日22時過ぎ、乗客が気分が悪いと訴え始めた。その原因は、車内の暖房が故障し、暖を取るために配られた火鉢だった。窓を閉め切った車内で一酸化炭素中毒が発生した。乗客全員が一旦押切駅近くの農協施設に避難する事態となった。既に新潟を発って24時間以上が経ち、いつ目的地に着くかわからぬ苛立ちも加わって、疲労困憊の様子だった。
 救援の「キマロキ」と呼ばれる除雪列車が長岡から向かったが、押切駅までなかなか行くことができず、やっと押切駅から急行〔越路〕を後ろに従えて戻ってきた頃には夜が明けようとしていた。急行〔越路〕はその後、長岡駅からは動くことができなかった。乗客たちは駅近くの旅館に避難していた。
 26日、27日と時が経っても急行〔越路〕は動くことはなかった。激しかった降雪は小康状態となり、追加応援の国鉄保線区員や自衛隊員の除雪作業が功を奏し、28日1時45分、先頭に除雪列車を連結した急行〔越路〕は、長岡駅を発った。既に遅れは100時間になろうとしていた。
 1月28日8時29分、急行〔越路〕は駅長が出迎える上野駅16番線ホームにたどり着いた。屋根には1m近く雪が積もったまま、車体のあちらこちらにつららをつけたまま、まさに満身創痍の急行〔越路〕だった。当初は350名ほどいた乗客も約100名ほどしか残っていなかった。
 所要時間112時間24分(4日と16時間24分)、遅延106時間31分。表定速度(平均速度)2.93km/hは歩く速度より遅くなった。遅延記録106時間31分は、空前絶後の雪害遅延記録となった。

 新潟県を襲ったサンパチ豪雪を象徴したのが、この急行〔越路〕の苦闘で、人々の記憶に残り、語り継がれていった。地元紙・新潟日報社が編纂した『20世紀にいがた100シーン』にも〔越路〕の苦闘が記されている。

 翌24日、立往生している列車の救出を最優先にするべく、自衛隊員・地元消防団員8,500名が動員され、列車の救出にあたった。しかし、懸命の除雪作業にもかかわらず、信越本線・新津−長岡間、弥彦線、只見線、飯山線、魚沼線は全面的に運転不能状態に陥ったままだった。

 前年登場したばかりの特急〔とき〕は、三条駅で3日間足止めされていたままだった。結局、特急〔とき〕は後に運転を打ち切られた。

 25日、26日、27日になっても、雪は降り続き、各地から派遣された応援の除雪要員が雪をかき分けやってきたが、重たく湿った雪に除雪作業は遅々として進まなかった。「キマロキ」と呼ばれる除雪専用列車さえも、降り続く雪に歯が立たず、結局は人海戦術を展開し雪と闘う以外、除雪の術はなかった。国鉄新潟支社は、長岡、東三条、新津などを拠点に自衛隊・救援隊1万2,000名を動員した。

 28日になって雪も小康状態となり、夕方になって信越本線・長岡─新津間は6日ぶりに運転を再開した。しかし、ダイヤは大幅に乱れ、上野方面などへの長距離列車は運転されず、短距離のローカル列車を乗り継ぐしかなかった。それに、当時の貨物輸送は鉄道が大きなウェイトを占め、鉄道網の混乱は、日用品の欠品や食糧品の品薄を生じさせ、豪雪に見舞われた住民たちにも影響を及ぼした。そのため、運転再開直後は、貨物列車の運転が優先され、特急〔とき〕などの長距離優等列車の運転再開までは時間を要した。

 暦は如月きさらぎに変わっても、上野−新潟間の直通列車は運転できなかった。やっと運転できたのは2月7日。最後まで不通区間があった弥彦線も翌8日に運転を再開し、新潟県内の鉄道網は一通り復旧したが、まだ特急〔とき〕などの長距離優等列車の運転は見合わされていた。

 特急〔とき〕の運転が再開されたのは、2月18日。実に25日ぶりにクリーム色と臙脂えんじ色の161系電車が、雪壁の合間を縫うように走った。サンパチ豪雪は、前年に運転を開始した特急〔とき〕にとって、最初の大きな試練でもあった。

 サンパチ豪雪による国鉄新潟支社の被害額は7億1,400万円(当時)に上った。また、サンパチ豪雪による新潟県内の被害は、死者12名、負傷者399名、全壊家屋53戸、半壊家屋182戸、融雪による床上浸水197戸、床下浸水3,205戸。排除雪に従事した消防団員のべ1万0,530名、自衛隊員のべ12万3,282名。被害総額109億円(当時)に上った。

特急〔とき〕を襲った新潟地震

特急〔とき〕 不遇の1964年

 前年の「サンパチ豪雪」から立ち直った1964年(昭和39年)。

 新潟は、6月に控えた新潟国体、そして10月に控えた東京オリンピックに向け、まさに高度経済成長を謳歌しはじめていた。1962年(昭和37年)に登場した特急〔とき〕は、1往復の運転だったものの、東京と新潟を結ぶ大動脈の一翼を担い、活躍が期待されていた。

 しかし、1964年(昭和39年)は、〔とき〕にとっては「不遇の年」と言わざるを得ない年だった。

 1964年(昭和39年)4月25日、東海道本線・静岡操車場構内(草薙−静岡間)の踏切で、東京発宇野行の電車特急〔第1富士〕がダンプカーと衝突した。151系電車6両が損傷、とくに先頭車両のクロ151-7は大破した。当時、車両の絶対数が不足し、151系電車に予備がなかったため、153系電車と呼ばれる急行に使われる電車を特急〔こだま〕に代用(特急料金は半額払い戻し、5月6日まで)していた。だが、急行の電車を特急として運転させるのを長引かせるわけにいかないのは当然のことだった。そこで白羽の矢が立ったのは特急〔とき〕に使われていた161系電車。先頭車両を含め161系電車3両を事故に遭って無事だった残りの151系電車に連結することになった。つまり、東海道本線の特急列車を運転するために、特急〔とき〕から編成の一部を供出することになった。151系電車と161系電車は連結して運転できる同系列の電車で、いわば弟≠フ161系電車から兄≠フ151系電車に貸し出された。

 奇遇にも、このとき特急〔こだま〕に代用された急行に使われる153系電車は、161系電車の代用として特急〔とき〕としても運転されたことがあった。これはサンパチ豪雪によるもので、1963年(昭和38年)1月24日から2月17日までの数回、代用運転された。

 東海道本線に貸し出したことで先頭車両の片方を失った特急〔とき〕を運休させるわけにいかず、準急〔日光〕に使われていた157系電車から3両の供出を受け、161系電車との運転に対応した応急工事を経て、161系電車と157系電車の混合編成によって、特急〔とき〕が6月30日まで運転された。しかし、6月16日に発生した新潟地震で、特急〔とき〕自体が運休する事態となり、161系電車と157系電車の混合編成による特急〔とき〕は、10日間も運休を余儀なくされた。まさに、特急〔とき〕にとって1964年(昭和39年)は、前年のサンパチ豪雪に並び、不遇の年だった。

 >>>[plus+]-[新潟地震から40年]

 1964年(昭和39年)4月25日に東海道本線・静岡操車場構内(草薙─静岡間)で発生した踏切事故により、特急〔とき〕に使用されていた161系電車の一部がピンチヒッターとして特急〔こだま〕〔富士〕に供出され、準急〔日光〕などの157系電車を借り受け、161系電車と157系電車の混合編成で運転されていた。

 そのような変則的な運転体制の特急〔とき〕を新潟地震が襲った。6月16日、マグニチュード7.5の激震が新潟県を中心とする北陸・東北地方を襲った。

 特急〔とき〕は、地震発生時には上野駅到着前だった。幸運にも新潟地震の直接の被害を受けることはなかった。しかし、新津─新潟間で運休し、特に新潟駅周辺で壊滅的な被害を受けたため、特急〔とき〕は、新潟駅が機能回復するまで運休された。

 上野─新潟間の急行列車は、新潟に入れず新津で折り返し、22日になってようやく臨時列車が仮設された笹口臨時ホームに乗り入れた。24日朝には前夜上野を発った急行〔越後〕がホームの復旧が進んだ新潟駅まで入り、急行〔弥彦〕〔佐渡〕〔越路〕〔ゆきぐに〕〔越後〕の運転が再開されたが、特急〔とき〕の運転再開は27日まで待たなければならなかった。

 運転を再開した特急〔とき〕は、運休前と変わらず161系電車と157系電車の混合編成で、正規の161系電車のみでの運転は、7月1日からだった。まさに、変則に変則を重ねた1964年(昭和39年)6月の特急〔とき〕だった。

 新潟地震による国鉄新潟支社の被害額は約90億円に上った。

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