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History of "TOKI"
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特急〔とき〕デビュー

1962.6.10

1962年6月
特急〔とき〕時刻
1M 列車番号 2M
と き   と き
16:50 上 野 13:10
18:08 高 崎 11:52
20:32 長 岡 9:28
21:16 新 津 8:44
21:30 新 潟 8:30

 サン・ロク・トオ≠ニ呼ばれる国鉄の白紙ダイヤ改正から約8ヶ月が経っていた1962年(昭和37年)6月10日(日曜日)。信越本線・長岡─新潟間の電化が完成し、上野と新潟を結ぶ特別急行列車がデビューした。その名は特急〔とき〕。〔とき〕のために新製された161系電車9両編成によって、上野─新潟間を4時間40分で結んだ。ちなみに、6月10日は「時の記念日」。国鉄が洒落っ気たっぷりにこの日を特急〔とき〕のデビュー日としたのか、単なる偶然の一致なのかは、定かではない。

 特急〔とき〕の列車番号は、「特別急行」たる栄光のトップナンバー、1Mと2Mが付与された。本来、特急に差はないが、重要性が高いものから列車番号が振られるのが慣例で、列車番号が若ければそれだけ「格」が上とみなされがちである。そのような中、上野発の特急として1M・2Mの列車番号を振られた特急〔とき〕に対する期待もそれだけ大きかった。

1962年のデビュー当時の編成図(161系電車)
クハ161 モロ161 モロ160 サシ161 モハ160 モハ161 モハ160 モハ161 クハ161
←上野 新潟→
あ・の・こ・ろ
〜1962年(昭和37年)〜

 5月3日、国鉄常磐線・三河島─南千住間で下り貨物列車が信号を誤認、車止めを突き破って機関車が脱線、下り線路内に傾いた。そこへ上野発取手行下り電車が衝突脱線、乗客は線路上を歩き始めたところ、南千住駅を出た上り電車が突っ込み、脱線車輌に衝突した。後に「三河島事故」と呼ばれるこの事故で、160名が亡くなり、296名が負傷する大惨事となった。

 一方、冒険家の快挙もこの年であった。堀江謙一は当時23歳で、パスポートとビザをもたないまま小型ヨット「マーメード」で兵庫県の西宮ヨットハーバーからアメリカに向けて出帆した。94日にわたる悪戦苦闘のすえ、8月12日サンフランシスコに到着、世界初の単独太平洋横断に成功した。

 この年、世界中に緊張が走った。キューバ危機である。ケネディ米大統領はソ連がキューバにミサイル発射基地を建設中と発表、キューバ海上封鎖を声明。その後、ウ・タント国連暫定事務総長の斡旋で、フルシチョフ・ソ連首相が攻撃用兵器撤収を表明して一段落したが、世界中が第三次世界大戦の恐怖に震えた。

 ちなみに、日本シリーズは東映と阪神が争い、東映が日本一に輝いた。また、土俵の鬼と称された初代若乃花が引退したのはこの年。大鵬が4場所優勝に輝いた。

 ときの総理大臣は所得倍増計画をうたった池田勇人。国鉄総裁は、十河信二(第4代)。

 特急〔とき〕の登場は、当時まさに「高嶺の花」「憧れ」の登場でもあった。上野─新潟間の運賃が片道870円、特急料金600円の1,470円(これらの金額は二等。一等は合計2,920円だった)といえども、当時の大卒初任給は17,815円。大卒初任給から現在の金額に換算すると、二等が片道15,000円程度、一等に至っては約32,000円程度で、特急〔とき〕の乗客は、会社の重役クラスや富裕層に限られ、一般庶民は急行利用が専らだった。

161系電車

 特急〔とき〕の運転開始に際し、国鉄は「こだま型」と呼ばれる151系電車と「日光型」と呼ばれる157系電車を試験的に上越線で走らせ、その性能を確認した。なにより、20‰の急勾配を安全に登り下りできるかが最大のカギを握っていた。

 東海道本線などの平坦区間用の151系電車では性能的に不十分で、157系電車では安定的な走行結果を得られた。当初151系電車の増備で特急〔とき〕の運転を賄おうと考えていた国鉄は、151系電車をベースに、足回りを勾配区間用に強化し、耐寒耐雪装備を備えた車輌をメーカーに発注した。これが「161系電車」である。

 特急〔とき〕の運転開始時には、161系電車が基本編成9輌編成と予備車6輌の15輌しかなく、毎日運転しながら予備車を駆使して検査しなければならず車輌運用上は相当タイトな運用だった。その運用を支えたのは、161系電車が所属した東京・田町電車区や新潟運転所の国鉄マンのひたむきな努力と使命感にほかない。

本社営業局〔とき〕vs新潟支社〔はくたか〕

愛称ものがたり

日本交通公社時刻表の1964年3月号「愛称ものがたり」その1『とき』より

 たそがれていく平原を、長い間見つめている一羽の鳥がいるとする。

 鶴のように羽が白く、鷺のようにくちばしをとんがらせ、頭は赤く、足はカモシカのように細い。そしてその瞳には人間たちの想像できない哀しさが溢れている。これが絶滅寸前にある「とき」の姿だと思ってみる。しかしこんな光景を見るためには、沼地に足を捉われ、葦の葉が茂るジャングルを分け入らなければならない。「とき」は、外国では神聖な鳥とされ、いくらその肉がうまくても決して生け捕ろうなんていう者はない。古いギリシャ神話の中には「とき」を捕らえた者が、ハリツケにされたという話がある。

 日本の「とき」は美人鳥とか桃花鳥などとほめられながらも、その数は年々減る一方、現在ではもう、佐渡に八羽とか十羽生息しているに過ぎないらしい。

 上野─新潟間を走る特急に、「とき」という名称を授けてやった名付親は、きっと、荒野の夕焼けをじっと佇んでみつめていた「とき」の孤独な影や、あの悲しい瞳に接した人かもしれない。そして、やがて一羽もいなくなってしまうかもしれない「とき」の姿を、せめて列車の名前にだけは永遠に残しておきたいと思ったのではないだろうか。

 滅んでいくものの美しさといえばあまりにもはかないけれど、それだけに「とき」はますます貴重な鳥になっていく。

 天然記念物だし、国際保護鳥に指定されている。

 当時の国鉄では、列車愛称の決定権が東京の本社営業局にあった。

 上野─新潟間にデビューする特急列車の愛称については、国鉄新潟支社では鳥の名前をつけようということに決まっていた。それは、上野発着の特急が〔はつかり〕、〔つばさ〕、〔白鳥〕、〔ひばり〕など、鳥に縁がある愛称が付けられていたことが、少なからず影響したと考えられる。新潟支社では〔はくたか〕、〔はくつる〕などの案を出したが、「日本酒の銘柄みたいでしっくりこない」という意見もあったものの、新潟支社としては〔はくたか〕にまとめた。余談であるが、〔はくつる〕も日本酒の有名銘柄であるが同時に上野─青森間の寝台特急でもあった。

 ところが、本社営業局が出した案は〔とき〕(朱鷺)で、新潟支社は“滅びゆく鳥”ということや当時の知名度が低かったことから、この案に猛烈に反対した。ここに、上野─新潟間の特急列車の愛称に関する「本社営業局〔とき〕vs新潟支社〔はくたか〕」の対立の図式ができあがった。

 結局は、半ば強引に本社営業局の〔とき〕が採用された。このとき、本社営業局は

  1. ゅうの〔とき〕
  2. 運転開始の6月10日は「時の記念日」
  3. 電車特急では10番目の特急として運転開始

という新潟支社側が納得しがたい理由を付した。161系電車の先頭車輌につけられたヘッドマークにはわざわざ小さな文字で「朱鷺」とまで書き込むほどの意気込みで、本社営業局の力の入れようが伺えた。

 新潟支社側が強く推した〔はくたか〕という愛称も、後に上越線回りの上野─金沢間の特急列車に命名された。〔はくたか〕は上越新幹線の開業で廃止されたものの、1997年(平成9年)の北越急行ほくほく線の開業により、越後湯沢─金沢間の特急として復活した。

 歴史に「if」は禁物だが、このときに〔とき〕ではなく〔はくたか〕が採用されていたら……、歴史の皮肉な巡りあわせだろうか。

新潟の地元紙『新潟日報』が伝えた〔とき〕への期待

特急とき=@雪にも強く力持ち  最高110キロまで出せる

 特急とき≠ヘ10日から新潟─上野間を4時間40分で走っているが、そのクリームとエンジのツートンカラーのスマートな車体は、県民、利用客から親しまれ愛されるだろう。国鉄新潟支社の生き字引きの白川文書課長は「私が鉄道に就職したころは急行で7時間以上もかかったものだが、5時間足らずで行け、日帰りも可能になるなどとは夢のようだ。上越国境にはけわしい山があり、このためトンネルで連結のうえ、急こう配なのに、平均時速74キロで走る特急が生まれたというのは、国鉄技術陣の優秀さを物語るものであり、煙のないスピーディーな電車誕生はほんとうにうれしい」といっている。とき″の平均時速は下り74.9キロ、上り73.8キロで、他地区の特急と比べてみると、東海道線さくら≠フ68.5キロ、東北線のはつかり≠フ72.1キロより速く、こう配区間の多い線を走る特急としては高性能を持った電車であることが証明される。これを急行佐渡≠フ平均時速66キロに比べても、特急という名にそむかないことがいっそうはっきりする。とき″は最高時速110キロまで出せる性能を持っており、新潟─上野間の全線複線化が完了すれば、さらにスピードアップが予想され、大体4時間ぐらいで走らせるという夢もある。新潟─羽田間の飛行時間は現在1時間半だが飛行機の場合、飛行場までの往復時間と待ち時間などを計算に入れれば特急と比べどちらがどちらともいえなくなる。そうすると料金が割り安につき、安全度の高い特急は、利用者からよろこばれることになるだろうと国鉄関係者はみている。

『新潟日報』1962年(昭和37年)6月12日
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