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History of "TOKI"
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特急〔とき〕誕生前史(下)

上越線全通

谷川岳たにがわだけ

 谷川岳は標高1,977m、北に一ノ倉沢岳、茂倉岳、武能岳をなし、西にオジカ沢の頭、万太郎山、仙の倉山、平標たいらっぴょう山とともに谷川連峰を形成する、谷川連峰の中心的存在である。

 日本屈指の岩場の山容地勢と気象は、日本アルプスの3,000m級の高山に匹敵するパノラマを誇る。稜線からの展望も素晴らしく、夏の縦走路ではお花畑を随所で見ることができ、また、その山容地勢からロッククライマーからは憧れの聖山といわれている。

 谷川岳へはロープウェイとリフトを利用すれば比較的楽に登山できることから、子供から中高年まで多くの登山者でにぎわう。山頂からは東に燧岳ひうちがたけと日光連山、さらに南には赤城山と榛名山が、また西には仙の倉山と苗場山、晴れた日には富士山や日本海まで見渡せる。ロープウェイの終点、天神平は夏にはニッコウキスゲや高山植物が咲き乱れ、谷川岳を主峰とする山々のパノラマが望める。また麓からは、変化に富んだ山岳美を楽しめ、初夏には万年雪が青い空との美しい対比が人々を魅了する。

1931年12月
上野−新潟間
急行列車時刻
701レ 列車番号 702レ
9:00 上 野 20:30
9:13 赤 羽 20:16
9:32 大 宮 19:59
10:06 熊 谷 19:27
10:55 高 崎 18:47
11:06 新前橋 18:31
11:25 渋 川 18:15
11:55 沼 田 17:51
12:27 水 上 17:31
13:27 石 打 16:21
14:12 越後川口 15:19
14:22 小千谷 15:08
14:38 宮 内 14:51
14:48 長 岡 14:44
15:01 見 附 14:26
15:16 東三条 14:11
15:25 加 茂 14:02
15:50 新 津 13:43
16:10 新 潟 13:15

 1931年(昭和6年)9月1日。岡村貢らの熱心な活動が実を結んだときが来た。人々の往来を拒み続けるかのように高く聳える「谷川岳」(1,977m)を貫通する清水トンネルが完成し、上越線が全線開業した。清水トンネルは全長9,702m、当時の国内最長トンネルで、前後に20パーミル(1,000m進むと20mの勾配で鉄道路線としては急勾配とされる)の勾配が続くため、水上─石打間は開業当初から電化されていた。そうすることで、トンネル内での蒸気機関車(SL)から排出される煙をなくすことができ、乗客の安全性と不測の事態を回避した。

 上野─新潟間には、急行列車(701レ・702レ)が1往復、上野─秋田間の急行列車と併結する形で運転され、上野9時00分発→新潟16時10分着、新潟13時15分発→上野20時30分着と7時間10〜15分かかった。しかし、16時間を要した信越本線・長野経由、12時間30分を要した磐越西線・郡山経由に比較すれば、圧倒的に上野─新潟間の時間短縮に成功したのである。

 この清水トンネルを挟む水上─石打間の電化区間を牽引するのは、ED16形電気機関車で、それ以外の区間では蒸気機関車が牽引していた。

 一方、そのころの日本は軍国主義が台頭し、上越線が全通した1931年(昭和6年)には満州事変が勃発した。上越線は、当時日本の植民地だった朝鮮半島や当時の満州(中国北東部)への輸送に組み込まれた。これ以降、1945年(昭和20年)の大東亜戦争・太平洋戦争(第二次世界大戦)の終戦まで、上越線は軍事上の重要ルートとして機能し、「戦時陸運」体制のダイヤが組まれた。対北東アジアの植民地への重要な軍事ルートであった上越線は、戦後の国土復興の重要ルートとなった。しかし、上越線沿線の都市でも、熊谷、前橋、長岡が終戦間近の市街地空襲を受け、鉄路も甚大な被害を受け、終戦を迎えた。

戦後復興〜〔越路〕登場

 1945年(昭和20年)8月15日、第二次世界大戦・太平洋戦争が終結した。終戦直後の混乱は鉄道にもおよび、1947年(昭和22年)初めまでは動力源の石炭不足による減量ダイヤが組まれ、上野─新潟間の直通列車は705レ・708レのみとなった。その後、石炭事情の好転から列車の増発をともなうダイヤ改正が実施され、上野─新潟間の直通列車も順次復活した。たが、石炭事情に左右される運輸体制を改善するため、上越線の電化が計画され、1946年(昭和21年)に既電化区間の水上─石打間以外の区間で電化工事が始まった。1947年(昭和22年)10月1日に高崎─長岡間の電化が完成した。>>>[アーカイヴズ]-[とき関連時刻表]-[1950年(昭和25年)10月1日改正の上越線ダイヤ(pdf)]

 また、終戦直後の混乱期を脱し、旺盛な旅客・貨物輸送の需要に応えるように逐次ダイヤ改正を実施して列車の増発を図った。1952年(昭和27年)4月1日に、上野─高崎間の電化が完成し、上野─長岡間で電気機関車による直通運転が可能となった。10月1日にはダイヤ改正が実施され、列車の増発やスピードアップが図られた。このダイヤ改正で、上野−新潟間の急行701レ・702レは〔越路〕と命名された。上越線でのネーミングトレイン(愛称名付き列車)は、この〔越路〕が初めてで、上野─新潟間を6時間で結んだ。

上越線のエース登場

あ・の・こ・ろ
〜1956年(昭和31年)〜

 元旦早々、新潟県弥彦村の彌彦神社で、福餅まきに集まった二年参り客3万人が殺到し、将棋倒しがおき、124名が死亡した。雑踏警備の手薄さが一因となった。また、10月15日には国鉄・参宮線六軒駅構内で名古屋発鳥羽行下り快速列車が脱線転覆、そこへ鳥羽発名古屋行上り快速列車が衝突、折り重なって転覆し、死者40名の大惨事となった。原因は下り列車の運転士の停止信号の無視だった。

 また、日ソの国交が回復したのはこの年。砂川基地闘争もこの年ピークに達した。一方、石原慎太郎著『太陽の季節』がベストセラーとなり、「太陽族」が流行語にもなった。現在も続く東芝日曜劇場(TBS系)はこの年にスタートした。

 ちなみに、日本シリーズは西鉄と巨人が争い、西鉄が日本一に輝いた。南半球で初めてのオリンピック、メルボルン五輪が開かれ、日本勢は金メダル4個を獲得した。

 ときの総理大臣は鳩山一郎。12月には石橋湛山が第55代首相に就任した。なお、国鉄総裁は十河信二(第4代)。

 1956年(昭和31年)11月19日、東海道本線の全線電化によるダイヤ改正が実施された。上越線では、上野─新潟間に急行〔佐渡〕(701レ・702レ=急行〔越路〕は703レ・704レに変更=)が増発された。この急行〔佐渡〕は下り列車が5時間45分で結び、上野─新潟間を6時間の大台を切った。急行〔佐渡〕は6輌編成の客車で運転され、上野−長岡間はEF57電気機関車が、長岡─新潟間はC51・C57蒸気機関車が牽引した。急行〔佐渡〕は、1985年(昭和60年)3月の上越新幹線上野開業まで「上越線のエース」急行として活躍した。

 1958年(昭和33年)4月10日には上野─新潟間の準急709レ・710レに〔越後〕と愛称が付された。これと時をほぼ同じにして、現在の位置に新しい新潟駅が開業した。

 1961年(昭和36年)10月1日、「サン・ロク・トオ」と呼ばれる白紙ダイヤ改正が実施され、その内容は国鉄創業以来最大規模のものとなった。しかし、上越線では、長岡─新潟間の電化完成が翌年に控えていたため、大規模なダイヤ改正ではなく、上野─長岡間の準急〔ゆきぐに〕の1往復増発にとどまった。一方で、日本海縦貫線(大阪─青森間)では、ディーゼル特急〔白鳥〕が大阪─青森・上野間に登場し、新潟県初の「特別急行」となった。

 1962年(昭和37年)、信越本線・長岡─新潟間の電化工事が完成し、いよいよ特急〔とき〕登場の舞台が整った……。

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