| History of "TOKI" |
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上越線の父 岡村 貢
庄屋の旦那の「夢物語」
岡村貢。上越線の歴史をひもとく時、彼の名を外すわけにはいかない。
貢は、1836年(天保7年)4月、当時の越後国魚沼郡塩沢組下一日市村、現在の南魚沼市に岡村紋吉・コン夫妻の間に生まれた。岡村家は当時、貢の祖父・母が財をなした資産家であり、庄屋(屋号「玉城屋」)の代表も務めていた。幼名を大次郎といった貢は読み書きの勉学に励み、漢学者の井口弥右衛門について学んだ。資産家の玉城屋は飢饉などが起ると難民救済に尽力した“地域の旦那様”であり、篤志家でもあった。
1877年(明治10年)に上野で開かれた万国博覧会に出かけ、新橋から「陸蒸気」(蒸気機関車:SL)に乗ったという。この時、貢は鉄道の重要性を感じ、1879年(明治12年)、南魚沼郡長に就いた貢は県の官員(公務員)などに、三国峠を越える鉄道敷設の重要性を説いてまわった。しかし、貢の熱弁に真剣に耳を傾けてくれる人はまずいなかった。明治になったとはいえ、草深い越後はまだ「江戸時代の延長」にあった。農山村には丁髷姿の老人が少なくなかった当時、貢の話は「夢物語」すぎたのだった。
後継・南雲喜之七との出会いと国政への進出
郡長を3年で辞職した貢は、「上越鉄道敷設運動」にすべてを捧げるかのごとく、通過地となる地域の有力者を訪ね、鉄道の重要性を力説し、呼びかけてまわった。この貢の理想を理解し協力しようと立ち上がったのが、土樽の南雲喜之七ら通過地の若者だった。貢と南雲はふたりで県境一帯を歩き、檜又沢入口の山毛欅の木に「上越鐵道通路」と刻み込んだのは後世にも伝えられる有名なエピソードとなった。さらに、自前の測量隊を幾度も雇い、建設ルートの確定に奔走した。
1887年(明治20年)、貢は東京に「上越鉄道会社設立事務所」を設けた。このころになると貢の上越鉄道計画に理解を示す人たちが増え始めた。1890年(明治23年)には政府に前橋─沼田─県境─長岡─新発田を結ぶ鉄道敷設免許を申請した。ところが政府は翌月、あっさりと申請を却下した。地形が厳しく、雪も多いことなどが却下の理由とされた。そのあと、新潟・群馬両県民2万名の署名を添えて政府に陳情しても、再申請も却下された。
このころから、貢は会社組織による鉄道敷設を本格的に検討しはじめたようだ。それと同時に度重なる政府の申請却下に国政の場に立たねば鉄道敷設が難しいことも考えていたようだ。
1894年(明治27年)の第3回総選挙で貢は大隈重信率いる立憲改進党の推薦をうけ、魚沼と東頸城の選挙区から立候補、当選し代議士となった。帝国議会で演説をぶった貢は、「鉄道の建設は国家の一大事業であり、地方的感情に制せられて国家の利害損失を度外にしてはならない。直江津延長線(直江津─新潟間)は海岸に沿い国防上の効用がない。上越線は直江津延長線より70里も短縮できる。ロシアに対して新潟は北門のカギとなり、上越線は国防上第一の良線である」と国防上の重要性を訴えた。それでも政府・帝国議会は貢に味方してくれなかった。
上越鐵道會社の設立と混乱
政府の上越鉄道敷設への積極的な姿勢から、貢ら新潟・群馬の有志7名が「毛越鐵道會社」を発起した。1895年(明治28年)6月、毛越鐵道會社を「上越鐵道會社」と改め、前橋─長岡間の鉄道敷設免許を政府に申請した。翌年には仮の定款を定め、1株50円で10万株(資本金500万円)の募集を始めた。1896年(明治29年)7月に仮免状が下付されると、株の申し込みが相次ぎ、応募予定を上回るほどだった。しかし、日清戦争の影響により物価が高騰し、資本金500万円では敷設できないのではないかと危惧され始めていた。
1897年(明治30年)、東京で上越鐵道會社の創立総会が開かれたが、社長が決まらない事態となった。このころから社内対立が表面化しはじめ、数人の利権屋が岡村家・上越鐵道から甘い汁を吸うことに終始した。1900年(明治33年)4月に本免状が下付されても、経済の不安定から株金の払い込みに見通しがつかなくなった。1901年(明治34年)4月に本免状を返還し、上越鐵道會社は破産状態となった。
巨万の私財(現在の貨幣価値では数十億円か)は、貢の夢とともに潰れ去った。貢は、すでに65歳になっていた。
やっと盛り上がった世論
時代は明治から大正にはいると、政争の具として鉄道敷設が注目されはじめた。いわゆる「我田引鉄」である。それと同時に、全国に開業してきた鉄道が魚沼にだけないのでは困るという気運が高まり、安田財閥の安田善次郎が上越鉄道に着目し、それに呼応するように陳情書が政府に提出されたり、期成同盟などの団体が結成された。
1917年(大正6年)10月、政府は上越線建設に向けて本格的なルートの調査を始めた。ここに貢がその生涯をかけた三国峠をぶち抜く上越鉄道建設が事実上決定した。これに、乗じた動きが中魚沼から出てきた。つまり、上越線が南魚沼を通過するより信濃川沿いの中魚沼を通した方がいいという運動であった。南雲喜之七ら南魚沼の運動家たちには青天の霹靂とばかりに驚いた。「鳶に油揚げ」は許せぬと南魚沼の人たちの誘致運動は熱を帯びていった。
1918年(大正7年)2月に上越鉄道敷設法案が衆議院を通過し、北側の長岡と南側の前橋からそれぞれ着工された。
上越北線の部分開業
1920年(大正9年)11月1日、宮内─東小千谷(現在の小千谷)間が開業し、貢は開業式に招かれ、85歳の高齢の身体、まして病後の身体をおして開業式に参列し祝辞を述べた。
「今回吾が地方多年の宿望たる上越鉄道も政府によりて敷設せらるることとなり、已に長岡より東小千谷駅迄開通するの運びになりましたので、地元有志者の発起にて此度その一部開通祝賀式を御催しに相成りましたのは、国家の為、誠に大慶の至りに堪えません。……」
岡村貢の死
1921年(大正10年)8月に東小千谷─越後川口間が開業し、その先の塩沢、湯沢までの工事も進んでいた。そんな折、数え88歳の米寿を迎えようとしていた貢は急に倒れた。1922年(大正11年)1月7日、岡村貢は上越線にかけた87年の生涯を閉じた。
1929年(昭和4年)12月、全長9,702mの清水トンネルが貫通した。上越南線は水上まで延び、残るは水上─越後湯沢間のみとなった。このころから、貢の業績を讃え後世に伝えようと銅像建立の話が持ち上がった。
1931年(昭和6年)9月1日、上越線は全線開業した。魚沼は大変な祝賀ムードに包まれた。貢の運動を後継した南雲喜之七は鉄道省建設局長から感謝状を贈られた。12月には、石打駅前に立像が建立されたが、大東亜戦争・太平洋戦争(第二次世界大戦)末期、銅供出に立像もかり出された。戦後、1961年(昭和36年)12月に再建され、今も貢の偉業を伝えている。
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