| History of "TOKI" |
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特急〔とき〕誕生前史(上)
東京と新潟を結ぶ鉄道の計画(明治前期)
1872年(明治5年)10月14日(当時の旧暦では9月12日)、日本初の鉄道が新橋─横濱間で当時の政府の手によって開業した。政府は、富国強兵など多くの近代化政策に多額の資金を必要とし、自らの手(官設・官営)で鉄道事業を展開したかったが、それを民間が設立した鉄道会社に任せることとした。これ以降、雨後の筍のように多くの鉄道建設計画が発表された。しかし、計画が頓挫したり、資金難に見舞われたりし、計画通りに鉄道建設は進むことは多くなかった。
新橋─横濱間に鉄道が開業した1872年(明治5年)、当時の日本の人口は約3,311万人で、現在の新潟県にほぼ相当する新潟・柏崎・相川3県の人口は約146万人と日本一人口が多い地域だった。ちなみに、単純に比較はできないが当時の東京府は約78万人で、当時の1使3府1藩72県のうち、廣島県、山口県に次いで柏崎県が3番目に人口が多い県だった。このように人口が多く、幕末開港した5港のひとつ新潟港を有する新潟と首都・東京とを結ぶ鉄道路線は、早くから計画されていた。それに加え、一大幹線である東京と京都・大阪を結ぶ鉄道路線の計画も進められていた。
しかし、上越線の原型である越後と上野を最短ルートで結ぶ鉄道計画は、谷川岳を主峰とする2,000m級の谷川連峰が計画を難しくした。また、江戸時代における越後の物流の主眼は、北前船を利用した関西方面のとのパイプが太く、越後と上野は「近くて遠い存在」でもあった。
1874年(明治7年)には、明治政府の工部省鉄道寮建設技師長のお傭い英国人V.ボイルなどが上越国境を調査したが、鉄道建設の見込みは低いと判断された。この調査は日本の鉄道の父と呼ばれる井上勝が計画させたのではないかといわれている。一方、東京と京都・大阪を結ぶ幹線計画は、国防上の理由から当初は東海道ではなく、中山道ルートが採用された。これにより、中山道線の早期開業には碓氷峠の険を避け直江津まで船で資材を運び、そこから順に開業させていくのがよいという意見が出され、1885年(明治18年)8月15日に直江津から中山道への資材運搬路線として、官設・官営の直江津線が直江津−関山間で開業した。
これより先、1883年(明治16年)7月28日には、澁澤榮一らが創立に奔走した日本鐵道会社によって、現在の高崎線である上野─熊谷間(61.2km)が日本で初めての私設鉄道として開業、上野、王子、浦和、上尾、鴻巣、熊谷の6駅も開業した。上野−熊谷間は1日2往復運転され、2時間24分を要した。翌1884年(明治17年)6月1日は日本鉄道の路線が高崎まで延伸した。
そして、1893年(明治26年)4月1日、長野県内で工事が進められていた直江津線が碓氷峠を越え、直江津─高崎間で全線開業し、上野と直江津の間で直通列車の運転を開始した。1897年(明治30年)から1899年(明治32年)にかけて、直江津に近い春日新田と沼垂の間が私鉄・北越鐵道の手で次々に開業した。1904年(明治37年)5月3日に沼垂から旧新潟市内に鉄道が延び、1905年(明治38年)8月1日には、北越鐵道、官設鉄道、日本鐵道の3者が、上野−高崎−直江津−新潟間に直通列車の運転を開始した。この時の所要時間は約16時間も要していた。
遠回りだった東京−新潟間(明治後期〜大正期)
1905年(明治38年)、北越鉄道、官設鉄道、日本鉄道の3者によって運転を開始した信越本線・長野回りの上野−新潟間の直通列車は、約16時間も要していた。その原因は、碓氷峠だった。急勾配の碓氷峠の上り下りにはアプト式鉄道(機関車の歯車と第三のレールであるラックレールを噛ませて峠を上り下りする方式)を採用し、専用の電気機関車に牽引されて、慎重に上り下りしていた。
1914年(大正3年)11月1日には、岩越線(現在の磐越西線)が全線開通し、現在の東北本線を経由する上野−新潟間に郡山回りの直通列車運転開始した。この列車の所要時間は約12時間30分で、直江津経由よりも3時間30分も短縮した。しかし、根本的な所要時間の短縮は、最短ルートである谷川岳をぶち抜く鉄道建設の他はなかった。
1917年(大正6年)、岡村貢らの熱心な活動により、上越線の建設を政府が決定し、上越南線、上越北線として、高崎、長岡(宮内)の双方から建設が進められ、順次開業した。1922年(大正11年)8月18日、谷川岳を貫く清水トンネル(9,702m)の掘削が開始された。清水トンネルの工事は、山ハネや大湧水に阻まれ、着工から7年あまりの1929年(昭和4年)12月に貫通した。そのころには、上越南線が水上まで、上越北線が越後湯沢まで延びていた。残す区間は、水上−越後湯沢間となっていた。
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